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しょう

Author:しょう
武将について語りたくて「天下侍魂」というHPをつくりました。織田信長の家臣団とその六大軍団長たちの家臣団、戦国・室町・鎌倉の大名達とその家臣団について探求していきたいと思います。
リンク先のHP「天下侍魂」ぜひ御笑覧くださいw


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安土城

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連休中に作成しましたw

「安土城」でっす。

ひさびさのプラモ。

くみ上げる前に色塗りすべきでした。
細かくて思い通りには塗れません。

最上階は中国宮殿のような赤瓦?

上の2層は金閣寺のような黄金色。
窓枠は「血の十字架」をイメージして(え。

下の層は壁は黒色、要所要所は金。

あとは塀ですけど・・。

いろんな城の壁をあとでみてみたのですが、
織田系のものは
白壁じゃなくて、やっぱ黒壁のような気がします。

塗りなおそう(笑。

それにしても天主の下層の屋根の
張り出しがどうも不自然だよなあ〜。

この石垣の張り出し部分、
何か屋根つきの建築物が天主横の
ここにもあったから、最下層の屋根は
こんなにも斜角で不均等なんじゃないでしょうか?

浮田秀家が安土城をまねて造った
岡山城天守もすぐ横に建物がくっついてるし。

気になる〜(妄想)。

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御笑覧ください。m(_ _)mペコリン。

戦国・中国地方の諸豪。

seto001.jpg

seto001.jpg

本日の地図のテーマは
戦国時代の中国地方の諸豪族。

大内家と尼子家が毛利家に吸収されて
その最大領域が黄色の枠線という感じで・・。

四国の瀬戸内海沿岸は、
黄色の部分が長曾我部氏に圧迫され
緑色のラインまで河野氏が圧迫された感じで。

九州は毛利家と龍造寺家との同盟が
大友家への圧力へとなっていたのかと、
描いてておもいました。

尾張の熱田・津島、
伊勢の大湊、
紀州の熊野・雑賀、
和泉の堺、
四国は三好勢力か、長曾我部勢力か、
九州の博多、竜造寺側か、島津側か、

商人は中立とはいえ、
織田家が堺をおさえてからは、
外交的に敵対勢力の毛利、龍造寺のルートと港が駄目とか、
三好側の港は駄目とか、各大名の
勢力関係の中での独占貿易というか
海運業戦国時代があったのかなあ。

どのような状況だったのか・・。

小西行長の親父(小西隆佐)さんとか、
なりあがるだけの戦国大名的な
なにかがあったんでしょうねえ。

そおゆうのまで勉強不足で、
まだまだ地図に反映できませんが、
「もっとしりたい」という気持ちはあります。


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なへゆる

東海地方、
駿河・遠江にて「なへゆる」発生。

阪神のときは高速がひっくりかえって
あちこちで火事の炎があがってましたが、
大丈夫でしょうか・・

台風も向ってるみたいで、
心配です。

戦国・九州の諸豪

kyuusyuu001.jpg

今日の気分で、「天下侍魂」
九州の戦国大名の、
島津義久、龍造寺隆信、大友義鎮のページに
つける地図をつくりました。

自分で人物を調べてるとき、

どうにも位置関係が、
地元人じゃあないのでわからない。

昔の郡の範囲も想像がつかない(><)。

ので、なんとか位置関係を
つかめないかなあ〜と
思いまして。

自分がほしいものは
きっと他の人も必要だろうと
思ったわけですが、

マイ手作りはやっぱ
真実味がないよなああああ(笑。

ていうかんじで、
ご覧になられるかたも、
こんな感じ?という程度で見てください。
気になることは自分で調べてみて
くださいねw。

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織田(津田)長利

今日の気分で織田(津田)長利さん(のつもりです)。

織田信長様の末弟です。

無(有)楽斎・長益よりも弟。

兄達が伊勢長島一向一揆戦で戦死したため、
信長さんの残り少ない兄弟になってしまいます。

経歴はざっと、
織田長利 (*1550〜1582)又十郎・長則。織田信秀の息。1574年伊勢「長島一向一揆討伐」に従軍。1574年から織田信忠付の家老。1581年京都馬揃えに参加。二条御所で討死。娘はのちに北畠信雄の側室。

おそらく信忠さんの一門衆として
信忠さんとともに戦い
各地に従軍したことでしょう。

『信長公記』では
「甲州乱入」木曽口に、織田孫十郎という人がいるのですが、
又十郎の間違いでしょうか?(こっちは信次の息か?)
もしくはその前の「織田、」とかかれる人物かw

信包さんが長野家に、
長益さんが養育先の平手家、
ということになれば長利さんはどこと縁があったのでしょうねえ〜。

影が薄いです。
なのでイラストにするのに、
アイデアが思い浮かばなかったのですが・・・。

上杉謙信と同盟関係にあったときに、
<1572年7月のことのようです。>
信長様が「愚息」を、
謙信の養子(人質に差し出しますということか)にと
手紙にかいてるようなのですが、

実現しなかったということなんですが、

当時、人質にだせるような身内がいたのでしょうか。

遠山氏の勝長さんか、
秀吉養子の秀勝さんか、
(相手(信長)にとって痛くもかゆくも無い人物なら
 人質に取る意味もないだろうしなあ〜)
その後の息子達は年齢が少し離れるようですし、

信秀さんの11男とも12男ともいわれる末子の
長利さんなら信長様が一旦養子にしてもよいような
(親子ほど年齢の離れた)
年齢だったかなあと妄想を膨らましてみました。
(信秀公が1551年頃お亡くなりになったと過程しています。)

もう少し史料に事績が残るほど
長生きしてほしい武将でした。

信包、長益さんが兄弟について
かきのこしているようなことって
ないのんかなああ〜。


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