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登美ノ勝也

Author:登美ノ勝也
武将について語りたくて「天下侍魂」というHPをつくりました。織田信長の家臣団とその六大軍団長たちの家臣団、戦国・室町・鎌倉の大名達とその家臣団について探求していきたいと思います。
リンク先のHP「天下侍魂」ぜひ御笑覧くださいw


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浅井長政の最大版図と金ヶ崎からの信長の逃げ道

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浅井長政の所領の最大版図について考えてみました。

1560年の「野良田の合戦」に勝利して独立を勝ち取り、
1563年の観音寺騒動で愛知川から東の国境を確定し、
1565年に近江高島郡の高島佐々木氏を打倒(朽木氏本家)。
そして朽木谷の朽木氏は将軍を匿った名族であるから今回は赦免すると温情を見せたという・・。
堅田の水軍等は、反織田だったということは琵琶湖での商売上、湖北三湊を抑える浅井とは友好関係だと推測されます。

浅井家って、大大名ではないですか?

1570年4月末、浅井長政の離反に信長は逃げ道を必死に探したと思いますが、
朽木谷を通って、千草峠越で戻るというのは、
湖西の沿岸豪族は長政に従っているので朽木を通るしかなく、
岐阜に戻るにも愛知川から佐和山にかけて浅井領なので、避けて通るしかなかったのかなと。
浅井領の縁辺をスルスルと通って帰る感じです。

浅井長政の離反は、信長も相当の窮地に追い込まれていたということでしょう。
信長が、長政の髑髏を盃にして酒を飲んだというのも、殺されかけた怒りからでしょうか。

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資料調べ

人物の事績の調査方法について。
質問がありましたので、参考にしてもらえればと自分の事を振り返ってみます。

私の経験ですが、
高校時代に、信長についてもっと知りたくて、新人物往来社の『信長公記』を買いました。
そして、登場してくる人物をノートに書きだして、一人ずつ調べて行く訳です。

吉川英治さんの小説や、司馬遼太郎さんの小説もありましたから、秀吉など主要人物は知っていましたが、太田牛一の書き残したリアルタイムの人物の事が気になって仕方ないというときに、谷口克広さんの『織田信長家臣人名辞典』が出版されたわけです。

新人物往来社さんの『戦国人名事典』や、『戦国大名家臣団辞典』を所有していましたが、それにも登場してこない人物についても詳しく紹介されていて感動ものでした。改訂版も買いました。

そんなこんなではまってゆき、『続群書類従』に軍記物が色々載ってるという事で買い、人物事典が出れば買い、という感じで今では本棚が辞典の重みで底が抜ける感じです。

あと重要なのは家系図関係です。
文庫本の系譜辞典や、日本史小百科家系、新版姓氏家系辞書、古本屋街に出向いた時に、いいのがあれば買う感じでたまって行きます。今はアマゾンとかでもっと手軽に買えると思います。

あと、真偽の程を確かめるのは、自分が何を信じるかですよね。

文書があるからといっても、戦国武将は自分に有利になる様に平気で嘘を並び立てますし、書いてあるからと言っても本当の事じゃない。安堵状にしても部下にするために乱発したり、後世の偽造もあるかもですし、真偽眼のある学者の方々のレベルまで到達することが出来れば素晴らしいですけど、一般人では惑わされても仕方ないと・・。

「軍記物」にしても、勝者の歴史や、敗者の負け惜しみ、いろいろと事実じゃないこともあるようです。

現代を生きていても、いつのまにか口達者な奴が、捏造した噂を広めていて、いつの間にか自分が悪者にされている。何が正義なのか分からないくらい世の中は理不尽です。

人の物事の受け止め方も千差万別。人それぞれです。

なので、ぼんやりと全体の縦軸の流れを通して見て、横軸でその時の事件の関係人物を広く見て、こうなのかな?と自分の納得できるところまで試行錯誤して行けたらいいんじゃないでしょうか。答えは無いです。

ということで冷泉家なら、家系図はあると思います。傍流でしたら省かれているかもしれませんが。

南朝方についた貴族の末路も、消えていくというか、記録が無くなりよく分からないと思います。

奥州北畠氏の関係者であれば、伊達氏が何か記録を残しているかもしれません。

北畠顕家関係の本や、資料文献は充実しているので、そこからあたっていくといいところまでたどり着けるんじゃないでしょうか。

頑張って見てみてください。

(返事が遅れて大変申し訳ないです)

十三湊の福島城について

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奥州藤原系の城柵が当然、日本海側にも進出した平泉藤原氏の支流によって構築されていったことが考えられます。

奥州藤原系河岸段丘型城柵のつづきを追っていきたいと思います。

この十三湊の地では、河川の管理を主目的としていたであろう、河岸段丘型の城柵から、今度は湖の管理、そして海に面する湊の守備と、海洋交易を睨んでの城造りへと自然に発展していったと思われます。

まず、入江となる十三湖に注ぐ川に面した段丘に、清原系城柵からつづく伝統の城が構築され(既に清原氏の柵・砦があったかもしれませんが)、
そして、十三湖周辺で河岸型から徐々に海洋型へと、場所を移して目的に応じた要塞へと変化していったのではないでしょうか。

福島城のある段丘では、河川に面したところの館。台地の中間にある居館らしき砦。台地の端にある防御の地(城)ということで、段丘壁を防衛線とする清原氏の柵からの伝統が残っているように読み取れます。

これが、十三湊安藤氏に受け継がれ、海洋に面した道南12館の築城術、選地の立地条件へと繋がってゆくと考えます。

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吉野ヶ里銅剣の持ち方

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久々に古代史です。

五瀬様としたのは世代的にどうなのかと問題ですが、

九州出身の王ということで。

また、銅剣が五瀬様の時代にあったかどうかも謎ですが、

九州勢力の北進が可能となったことは、何か特別な軍事技術の流入があったのか?

とも思えてきますが。

それが銅剣だったか、鉄剣だったか。

と、絵から話がそれていきましたが、問題は剣の持ち方です。

吉野ヶ里出土の銅剣を見ていて思ったのですが、

あれは中世の刀の様に、身体の前で持ち構えるものではないだろう。

と思うのですがいかがでしょうか?

むしろ、忍者の剣術というか、あの刀の持ち方のイメージです。

柄部の幅広いところで相手の剣を受け、鎧の隙間に剣を突き立てる。

接近戦の刀なのでは。

奈良の辺境の山間部で古代の剣法が残っていて、忍術として伝わっていたら・・

なんて、妄想は膨らみます。

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奥州藤原系河岸段丘型城柵

奥州藤原氏の城柵に進みます。

広範囲の地図です。
北上川に面し、北を衣川、南を太田川が堀の役目を勤めます。

北上の地名は、日高見に通じると言いますし、古来要地の場所なのでしょう。

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拡大詳細の地図です。
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後背の山が西側からの大軍を阻止します。清原氏残党を意識しての備えもあるのでしょうか。

南北を二本の小河川に挟まれ、前面を大河が流れる選地は、奥州清原系河岸台地型城柵の系譜を引いていると言えるのではないでしょうか。清原清衡は、実父・藤原経清の豊田館に最初は拠点を置いていたそうですが、そこでは守備に不安を感じたのでしょう。
1099年に平泉の地に本拠地は遷るそうです。
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