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しょう

Author:しょう
武将について語りたくて「天下侍魂」というHPをつくりました。織田信長の家臣団とその六大軍団長たちの家臣団、戦国・室町・鎌倉の大名達とその家臣団について探求していきたいと思います。
リンク先のHP「天下侍魂」ぜひ御笑覧くださいw


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平忠盛(平ノ忠盛)

odano904.jpg

今日の気分で、平家創業期の平ノ忠盛さん!!(のつもり)

武家の棟梁・源ノ義家の息子、
南海の海賊王・源ノ義親さんの叛乱を
朝廷の命で押さえ込んだ平ノ正盛さんの息子さんです。

経歴は、
平ノ忠盛:(1096〜1153)検非違使・左衛門大尉・伯耆守・備前守・伊勢守・播磨守・美作守・越前守・正四位刑部卿。平ノ清盛の父。平ノ正盛の息。弟に平ノ忠正。1113年、興福寺の僧兵から京都を守る。1129〜山陽・南海道の海賊を追討。白河法皇の信頼を得て平氏繁栄の基礎を作る。1135年、西海の海賊の追討使となる。藤原頼長が評して「数国の吏を経て、富巨万を重ね」、奴僕国に満ち、武威人にすぐ」『台記』と記している。肥前国神崎荘を拠点に中国貿易。58歳。兄弟に盛康、盛長、忠正。

HP「天下侍魂」より引用。

戦国時代末、織田政権の目指していたもの。
それは信長さんの嫡男・織田信忠さんが改名した頃から
理想というものが見えてきてたんじゃないでしょうか?

(以下、妄想ですw)

もともと織田信重という名前を名乗っていたのは、
平ノ清盛さんの嫡男が重盛という名前だったからでは
なかろうかと、推測。

信忠と改めるのは、
織田が平家の末流ということで、源平交代思想にのっかり
世に織田政権を具現するにあたって、
志半ばで散った平ノ重盛さんにあやかる名前はどうかと、
どこかで一抹不安を感じたのではないでしょうか。

で、南海道を制して中国との貿易で巨万の富を得た、
平ノ忠盛こそが、
信忠さんの意識にピッタリときたのでは
ないでしょうか。

毛利を征伐したのちの織田政権下で、
瀬戸内海は南蛮貿易などにより再び活況を呈し、
厳島神社の社殿はもっと巨大なものに
変わってたかもしれませんね〜(笑。

そういえば、
秀吉さんの造った名護屋城が、
安土城と微妙に形が似てる気がするなあ・・・。
建物と武将の配置は、
安土を踏襲してるかもなあ(妄想)。



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関長安

odano901.jpg

今日の気分で「鬼武蔵」森長可さんの妹婿、
関 小十郎右衛門さん(のつもり)です!

経歴は、

○関長安 (1552〜1584)小十郎右衛門・共成・成正。森可成の婿・森長可の義兄弟(妹婿)。1570・1573年近江に従軍。1574年7〜9月伊勢「長島一揆殲滅」に従軍。1575年「長篠の合戦」、1578年「有岡城攻囲」に従軍。1574年5月信長から蘭奢待を拝領。1582年「甲州乱入」の際、武田勝頼の首級を信長に届ける。尾張一宮城主。<十郎右衛門の息。十郎右衛門は1582年4月甲斐国恵林寺を焼き討ちする。「本能寺の変」時は森長可の与力として信濃に在陣か。>

「天下侍魂」織田信忠の家臣団より引用。

長可さんにも相棒というか信頼のおける人が
いたんじゃないでしょうか〜。

「小牧長久手」で一緒に戦死してしまうらしいですが、
在命なら、もっと名が知られる武将となっていたのでしょうね〜。


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森長可

odano900.jpg

今日の気分で、「鬼武蔵」森長可さん
の つもりw。

美少年、森乱丸さんのお兄さんなので、
顔は男前だったんだろうなあ〜
という気分で描いてみました。

性格は切れやすく攻撃的な印象です。

弟たちや、主の信長様、信忠さん、
同僚・団忠正さんが京都で戦死してからは、
生きる支えを何に求めていたのでしょうか。

加藤清正や福島正則さんも、
秀吉さんの天下が確実となるまでは、
森さんの前ではすくみあがってたんじゃ
ないでしょうか・・。

織田直系の若手武将達は、
豊臣や徳川の若手武将に
追い落とされて
さぞかし くやしかったでしょうねえ〜(妄想。



それにしても、
ひさびさに絵を描いたような気がする

画力がまた落ちた気がしますが
リハビリってことでw。




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新型(ニュータイプ)!!

家族が
新型インフルエンザに感染して
しばらく大変な生活でしたw

徐々に普通の生活に復帰しよう〜。

頭の中でやりたいことの
構想をねってたのですが・・。

たとえば信忠さんの漫画を
つづけるなら(笑、

信長様に怒られて謹慎していた期間。
見聞を広まるため、森長可・団忠正コンビと
諸国漫遊のたびににでて、
(水戸黄門さんのパクリですかw)

最初は織田領内ばーじょんで、
悪政や不正をはたらく代官をこらしめるというw
光秀さんの領内でトラブルがあって・・
本能寺につながるしこりをのこすとか(妄想。

次が、戦国の日本旅行。

織田の嫡男なので、
常に命を狙われるはずですが、
そこは影の軍団(ふかく考えてません)が
護衛しててきりぬけていくという・・。

なんてどうでしょう(笑。

とりあえず、しょうもないことを
妄想してます(^^;)。

織田信長の近衛軍(信長旗本)

odakonoe01_convert_20090820204333.jpg
今日の気分で信長様の近衛軍の配置。

odakonoe01_convert_20090820204333.jpg
縮小版です。

odakonoe01.jpg
拡大版w

南近江はもちろん、安土城のお膝元でもあり
信長様の直接支配が一番浸透していたことでしょう。
赤色に塗りつぶした部分。

旗元(旗本)は規模が強大に膨れ上がりすぎて
信長様の目が全軍に行き渡る規模ではないと
おもうので、直接的に軍を動かすのは
きっと信長様馬廻衆のリーダー、
福富秀勝さんが本締めだったのでしょう。

変後に秀吉さんが手紙で、
信長様は福富の活躍で生きて脱出していると
他の武将にあてて書いているのが証明するものかと。

馬廻りの京極高次さんは
北近江じゃなくて西湖の傍に領地を与えられたようですね。
それに六角氏の嫡流は、観音寺城に迎えられていたようで・・。

細川昭元さんや、旧勢力の貴種はできるだけとりこんでいく姿勢が
信長様にはあったのではないでしょうか。

ねこそぎなで斬り、破壊するような印象がありましたが、
朝倉景鏡、穴山信君、けっこう一門とよばれる人物も
赦免しているような気がします。
旧権力者が従うことにより信長様の「天道」というか
天下支配の正統性が強調されていたのではないでしょうか。

ピンク色は準直接支配圏というか、
「甲州乱入」に動員された範囲というか。

信長様の指示に従う遊撃軍団長の配下。

惟住(丹羽)長秀さんは、昔から
信長様の準旗本を率いているようなもんじゃないでしょうか。

あとは軍団が拡張するにつれての再編成のさきがけというか、

北陸方面軍からは、金森、原、不破は切り離されつつあったのでは。
北畿(東・若狭)方面軍は、秀吉の長浜は堀秀政に与えられていたといいますし、
長谷川秀一に与えられていた比田城=肥田ならば蜂屋頼隆さんのとこが
譲られたと推測すると、信長様の側近五奉行がどんどん旧城持衆の
居城を得て、旧城主は軍団長へ出世していってることになります。

ちなみに菅屋長頼は前田利家の越前府中といいます。
(佐々成政の旧領は野々村さんでしょうか?
それとも忠功の不破さんへの恩賞として吸収されたのかな?)

瀧川一益さんの北伊勢もきっと
側近の誰かにあたえられていたのでしょう。

自分的には土地勘のある
津島衆と縁のある福富秀勝さんが有力w
「本能寺の変」でのきなみ主要人物が死んでしまったので、
その領地は、支配者の交代も確認できぬまま
あっというまに生き残った武将の
草刈場となり塗り替えられたのかもしれません。

で、織田家の勢力圏の中の紫文字は、
方面軍の軍団長の与力ではあるけれども、
直接は信長様との主従関係であり、
局地的軍事的指揮にだけ軍団長に従うが、
領地支配はある程度自立性をもっていたのかなあ
と推測できる組下大名です(笑。

注:こんなかんじかなあ〜という妄想ですので
信じないで下さいね。

徳川、羽柴の指揮下の方面軍に関しても、
与力は直接的な軍団長(秀吉・家康)との主従関係ではなく、

「本能寺の変」によってすべての結びつきが
変化してしまったのだと、個人的には思っています。

松平家忠日記の「家康」→「家康様」への変化などから。

惟任光秀の軍団も、
一部の将だけが目的を知っていて、

下級クラスの兵は
「本能寺の変」で共犯者とされたことによって
軍団が変容したと・・・(悶々。

惟任光秀の畿内管領説なんてありえないと
個人的には思ってます(すみません)。

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