
今日の気分で信長様の近衛軍の配置。

縮小版です。

拡大版w
南近江はもちろん、安土城のお膝元でもあり
信長様の直接支配が一番浸透していたことでしょう。
赤色に塗りつぶした部分。
旗元(旗本)は規模が強大に膨れ上がりすぎて
信長様の目が全軍に行き渡る規模ではないと
おもうので、直接的に軍を動かすのは
きっと信長様馬廻衆のリーダー、
福富秀勝さんが本締めだったのでしょう。
変後に秀吉さんが手紙で、
信長様は福富の活躍で生きて脱出していると
他の武将にあてて書いているのが証明するものかと。
馬廻りの京極高次さんは
北近江じゃなくて西湖の傍に領地を与えられたようですね。
それに六角氏の嫡流は、観音寺城に迎えられていたようで・・。
細川昭元さんや、旧勢力の貴種はできるだけとりこんでいく姿勢が
信長様にはあったのではないでしょうか。
ねこそぎなで斬り、破壊するような印象がありましたが、
朝倉景鏡、穴山信君、けっこう一門とよばれる人物も
赦免しているような気がします。
旧権力者が従うことにより信長様の「天道」というか
天下支配の正統性が強調されていたのではないでしょうか。
ピンク色は準直接支配圏というか、
「甲州乱入」に動員された範囲というか。
信長様の指示に従う遊撃軍団長の配下。
惟住(丹羽)長秀さんは、昔から
信長様の準旗本を率いているようなもんじゃないでしょうか。
あとは軍団が拡張するにつれての再編成のさきがけというか、
北陸方面軍からは、金森、原、不破は切り離されつつあったのでは。
北畿(東・若狭)方面軍は、秀吉の長浜は堀秀政に与えられていたといいますし、
長谷川秀一に与えられていた比田城=肥田ならば蜂屋頼隆さんのとこが
譲られたと推測すると、信長様の側近五奉行がどんどん旧城持衆の
居城を得て、旧城主は軍団長へ出世していってることになります。
ちなみに菅屋長頼は前田利家の越前府中といいます。
(佐々成政の旧領は野々村さんでしょうか?
それとも忠功の不破さんへの恩賞として吸収されたのかな?)
瀧川一益さんの北伊勢もきっと
側近の誰かにあたえられていたのでしょう。
自分的には土地勘のある
津島衆と縁のある福富秀勝さんが有力w
「本能寺の変」でのきなみ主要人物が死んでしまったので、
その領地は、支配者の交代も確認できぬまま
あっというまに生き残った武将の
草刈場となり塗り替えられたのかもしれません。
で、織田家の勢力圏の中の紫文字は、
方面軍の軍団長の与力ではあるけれども、
直接は信長様との主従関係であり、
局地的軍事的指揮にだけ軍団長に従うが、
領地支配はある程度自立性をもっていたのかなあ
と推測できる組下大名です(笑。
注:こんなかんじかなあ〜という妄想ですので
信じないで下さいね。
徳川、羽柴の指揮下の方面軍に関しても、
与力は直接的な軍団長(秀吉・家康)との主従関係ではなく、
「本能寺の変」によってすべての結びつきが
変化してしまったのだと、個人的には思っています。
松平家忠日記の「家康」→「家康様」への変化などから。
惟任光秀の軍団も、
一部の将だけが目的を知っていて、
下級クラスの兵は
「本能寺の変」で共犯者とされたことによって
軍団が変容したと・・・(悶々。
惟任光秀の畿内管領説なんてありえないと
個人的には思ってます(すみません)。

↑(^▽^)>ここを一発クリックで一票のご協力を宜しくお願いしま〜す”

←こちらのランキングにも参加しました。
上と同じく一発クリックで応援お願いシマス。
押してくれた貴殿に感謝でぇ〜あります。
よろしければ、リンクしてます私のHP
「天下侍魂」
最近の思うところで更新しましたので
御笑覧ください。m(_ _)mペコリン。