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登美ノ勝也

Author:登美ノ勝也
武将について語りたくて「天下侍魂」というHPをつくりました。織田信長の家臣団とその六大軍団長たちの家臣団、戦国・室町・鎌倉の大名達とその家臣団について探求していきたいと思います。
リンク先のHP「天下侍魂」ぜひ御笑覧くださいw


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十三湊の福島城について

fukusimaandou1.png

奥州藤原系の城柵が当然、日本海側にも進出した平泉藤原氏の支流によって構築されていったことが考えられます。

奥州藤原系河岸段丘型城柵のつづきを追っていきたいと思います。

この十三湊の地では、河川の管理を主目的としていたであろう、河岸段丘型の城柵から、今度は湖の管理、そして海に面する湊の守備と、海洋交易を睨んでの城造りへと自然に発展していったと思われます。

まず、入江となる十三湖に注ぐ川に面した段丘に、清原系城柵からつづく伝統の城が構築され(既に清原氏の柵・砦があったかもしれませんが)、
そして、十三湖周辺で河岸型から徐々に海洋型へと、場所を移して目的に応じた要塞へと変化していったのではないでしょうか。

福島城のある段丘では、河川に面したところの館。台地の中間にある居館らしき砦。台地の端にある防御の地(城)ということで、段丘壁を防衛線とする清原氏の柵からの伝統が残っているように読み取れます。

これが、十三湊安藤氏に受け継がれ、海洋に面した道南12館の築城術、選地の立地条件へと繋がってゆくと考えます。

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吉野ヶ里銅剣の持ち方

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久々に古代史です。

五瀬様としたのは世代的にどうなのかと問題ですが、

九州出身の王ということで。

また、銅剣が五瀬様の時代にあったかどうかも謎ですが、

九州勢力の北進が可能となったことは、何か特別な軍事技術の流入があったのか?

とも思えてきますが。

それが銅剣だったか、鉄剣だったか。

と、絵から話がそれていきましたが、問題は剣の持ち方です。

吉野ヶ里出土の銅剣を見ていて思ったのですが、

あれは中世の刀の様に、身体の前で持ち構えるものではないだろう。

と思うのですがいかがでしょうか?

むしろ、忍者の剣術というか、あの刀の持ち方のイメージです。

柄部の幅広いところで相手の剣を受け、鎧の隙間に剣を突き立てる。

接近戦の刀なのでは。

奈良の辺境の山間部で古代の剣法が残っていて、忍術として伝わっていたら・・

なんて、妄想は膨らみます。

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奥州藤原系河岸段丘型城柵

奥州藤原氏の城柵に進みます。

広範囲の地図です。
北上川に面し、北を衣川、南を太田川が堀の役目を勤めます。

北上の地名は、日高見に通じると言いますし、古来要地の場所なのでしょう。

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拡大詳細の地図です。
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後背の山が西側からの大軍を阻止します。清原氏残党を意識しての備えもあるのでしょうか。

南北を二本の小河川に挟まれ、前面を大河が流れる選地は、奥州清原系河岸台地型城柵の系譜を引いていると言えるのではないでしょうか。清原清衡は、実父・藤原経清の豊田館に最初は拠点を置いていたそうですが、そこでは守備に不安を感じたのでしょう。
1099年に平泉の地に本拠地は遷るそうです。
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平安末期奥州清原系城柵のまとめ

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広範囲に清原氏の領域をみたものです。
城柵の分布から雄物川流域の流通を抑えて、飽田を支配していたのではないでしょうか。
東北の蝦夷の民を支配するには、山の神への信仰も大事でしたでしょうし、漁労活動の支配や、治水等の水利事業を通しての、調整役としての清原家の存在感というのもあったのではないでしょうか。

天智天皇の子孫が、出羽に逃れていたという天智系の伝説も気になりますし、
天武・持統天皇の制定した中での皇族に与えられる「真人」という官位を与えられている氏族というのも気になります。

清原真人。

奥州でも特別な貴種として、俘囚長の安部氏とも一際違う存在感でもあったのかも。

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更に拡大したもの。下流域の大台滝ノ柵の存在からして、日本海にも進出していた事は確実かと思われます。
周辺の由利氏や河田氏、大河氏とも婚姻関係を通じて縁を結んでいたのではないのでしょうか。


次は奥州藤原氏系に進むか、遡って安部氏系に進むか、どちらにしましょう。


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奥州清原系城柵 虚空蔵大台滝の柵

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奥州の清原系の城柵シリーズの最後です。
秋田県の大台滝遺跡の調査でここが柵ではないかということで、縄張りについて考察してみました。
まずは一番引いて観た地形です。二本の大河に囲まれた位置ですが、北側は大きく離れています。
という事で河岸段丘を開析する小河川が、北側の備えであろうと考えます。
雄物川が南と西を防御する形です。

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北側は小河川が開析した渓谷が備えとなっていて、館の東側には大軍を阻む山があります。

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そして、山から尾根続きに岬状に突き出てくる台地部分に、おそらく館が造られていたのだろうということが読み取れます。
山間部にある金沢柵と大鳥居柵に比べ下流にあるので、形態が変化しつつあるようです。
向背の山が近いの事も前述した2柵とは相違するところです。
西側の段丘際にひょっとしたら別の館が、角になる要所にあるかもしれませんが、不勉強なもので今はよく解りません。
類似するものとしては、十三湊の福島城の河岸段丘上の立地に共通点があると言えます。

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