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登美ノ勝也

Author:登美ノ勝也
武将について語りたくて「天下侍魂」というHPをつくりました。織田信長の家臣団とその六大軍団長たちの家臣団、戦国・室町・鎌倉の大名達とその家臣団について探求していきたいと思います。
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斯波義敏、織田敏定、信長、太田牛一

1472年遠江では斯波義良を当首に、対今川。
1481年叔父・斯波義孝、甲斐、二宮が参加し、
「越前朝倉攻め」
(経路が問題です。二宮氏は信濃と加賀に縁があります)
しかし朝倉氏景に敗北。甲斐氏の没落です。


1475年越前では大野の斯波義敏が、朝倉に敗北し
南尾張の織田敏定を頼ります。
1478年敏定は幕府公認の守護代に認定されます。

1471年朝倉に越前を奪われた斯波(渋川)義廉は、
北尾張の織田敏広を頼ります。

1481年敏広は尾張の争乱に戦死。
同じ年、上述したように
斯波義良は越前に攻め上るも大敗。

この1481年がターニングポイントだと思うのです。

斯波義敏はこの年、自分の正当性を主張すべく「斯波家譜」
という書を記します。

書を残すというのは、けっこう敗者の側がする行為です。
今川貞世(了俊)しかり、

「信長公記」しかり・・。

1481年頃から朝倉方では、自己の守護職安泰のため、
苦肉の策として斯波(渋川)義俊を御所として擁立し、
建前上の越前の国主とします。

この行為は、織田信長もやってるのですが、
「信長公記」では詳しく書かれていません。
やはり都合の悪い事は削除するのでしょう。
その点で、同じ立場にある朝倉氏のことも悪くは書けない
という前提ができるわけです。


1483年頃から斯波義寛が新しい当主となり、
1487年、1491年と幕府に従い、
2度の南近江への遠征があるのですが、
これには朝倉貞景も参陣するそうです。

がしかし、守護職を奪った朝倉の越前の事は不問にされます。
それはなぜか、まさに
織田家も同じような立場を目指しているから
なのでは?。

また、斯波義寛が、朝倉の擁立した斯波義俊と
同族(兄弟?)なので、義俊の身の安全を考えると
攻撃する名目が立たなかったのでは?。

1493年管領・細川政元の「明応の政変」
これで、足利義材(義稙)に近い斯波義寛の立場は
危うくなります。

また、1495年頃に織田敏定は亡くなるそうです。

数々の玉突き現象の上に、
「下剋上」で、都合の悪い事は伏せる。

また、1481年の越前表での斯波氏の大敗を受けて、
1482年頃に独立。その後の今川氏親の遠江への侵略を
目立たなくするための今川氏の都合もあいまって、

義良、義寛が同一人物なのか、別人なのか
義達の親が誰なのかが、
がはっきりしないのでは。

太田牛一はわかっていても、
織田信長の立場をおもんばかって、
斯波氏について詳しく書き残さなかったかもしれませんね。


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