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登美ノ勝也

Author:登美ノ勝也
武将について語りたくて「天下侍魂」というHPをつくりました。織田信長の家臣団とその六大軍団長たちの家臣団、戦国・室町・鎌倉の大名達とその家臣団について探求していきたいと思います。
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吉良、斯波家の同盟

1467年「応仁の乱」以降の斯波家の動向が

ずっと気になっています。これがはっきりしないと、織田弾正忠家の立ち位置が

いつまでも決まらない(笑。

西軍の斯波・渋川義廉、東軍の斯波義敏。

義敏は「応仁の乱」前の長い期間、西軍の主力となる大内家にお世話に

なっているにも関わらず、東軍。・・幽閉されていたのか?。

義廉は山名持豊の娘婿とはいえ、九州探題職を大内家と争う渋川の出身。


次世代の斯波義良が、義敏の息子というのは間違いないと思います。

斯波義寛は、渋川義廉の息子でよいのじゃないでしょうか。


将軍・義尚とは「応仁の乱」の収束で和解が成立し、近江の六角征伐に

尾張の織田伊勢・大和守を引き連れて上洛するというのも変ではないです。


次代の将軍・義材とは、山名家の血を介して西軍つながりでもあり、

管領・畠山政長が、新進の細川政元を抑えるために、

西軍よりの立ち位置になって斯波義寛を大事にしたのかもしれません。


1493年の「明応の政変」では、西軍だったのに立ち位置微妙な畠山義豊を、

細川政元が利用して、将軍・義材、管領・畠山政長、斯波義寛の河内出陣を利用しての

革命。これによって河内畠山氏は一気に細川家よりになり、東軍的立場。


将軍・義材は追放され、畠山政長は自害。斯波義寛はといえば、

越前・加賀表で過去世話になったのであろう赤松政則を頼り、細川政元に降伏。

恭順の意味として、足利義澄と斯波義寛の娘の婚姻関係は、ここで結ばれたのでは・・?(未確認。


1493年以降に京都表で信長との繋がりが考えられる織田敏信の活動が見られるとか。

その息子なりに織田良信がいて、信定、信秀、信長と繋がる系譜があるのでは?。


斯波義寛は表舞台からのき、弟達が政権を担っていたのでは。

1500年に東海道遠江表で、二人は戦死してしまうようです。敗戦により

弟2名の事績が明瞭とならなかったのでは?


それ以降、足利義澄の義理の兄弟である、斯波義達が登場し(母は一色義直の娘)、

反今川に邁進。1508年の大内義興の上洛による足利義材(義稙)の復活で、

斯波義達の遠江守護の喪失、今川氏親の逸早い足利義稙への服従。

斯波家と吉良家の過去の婚姻関係を重視した同盟政策らしき動向

(不明なのですが義達の嫁は吉良家の娘なのでは?。

1517年斯波義達の敗戦へとの流れなのかなと・・・。

そう思うのが一番すっきりします。

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