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登美ノ勝也

Author:登美ノ勝也
武将について語りたくて「天下侍魂」というHPをつくりました。織田信長の家臣団とその六大軍団長たちの家臣団、戦国・室町・鎌倉の大名達とその家臣団について探求していきたいと思います。
リンク先のHP「天下侍魂」ぜひ御笑覧くださいw


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津田信澄、三好信孝、惟住長秀

とりあえず、思いついたこと。

1582年「本能寺の変」後の大阪の争乱。

織田信長の三男・信孝が、「四国攻略」の御名代を拝命し、

翌日から、織田家重臣たちや町衆からの贈り物や支援によって、

いっきに大大名並みの財産を手にしたらしいです。


それは当然、四国攻めの軍資金になるということなのでしょうが、

それは果たしてどこに保管されていたのか。


また、石山本願寺が1580年に炎上してから、その跡地は放置されていたのではなく、

織田家の軍事拠点として、粛々と整備されていたのではないのでしょうか。


小牧山城、安土城、佐和山城と、数々の織田系城郭を造り上げてきた

惟住五郎左衛門尉が、1580年から何をやってきていたのか・・。


「変」後に安土城の金銀財宝を、惟任日向守が接収したとはいえ、

四国・中国攻めの軍資金は、大阪表にすでに移動済みだったのでは?。


若手武将、随一の「切れ者」、津田信澄は大阪城の千貫櫓に何が保管されていたのかを

知って真っ先に抑えていたのでは?。


「山崎合戦」後から、「清洲会議」までの間に、

信孝後見人的な役割を担当するはずの惟住五郎左衛門尉が、

何故、信孝と袂を分かつ事となったのか、


軍資金を巡り、何かドラマチックな展開があったのでは、

津田信澄さんの死因、惟住五郎左衛門の動向、

決して無駄な時間を、無意味に過ごしていた訳ではないと思います。

現在の一面的な評価、見落としがあるのでは・・。

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