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登美ノ勝也

Author:登美ノ勝也
武将について語りたくて「天下侍魂」というHPをつくりました。織田信長の家臣団とその六大軍団長たちの家臣団、戦国・室町・鎌倉の大名達とその家臣団について探求していきたいと思います。
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徳川改姓と三河守任官について

1566(永禄9)年12月末に三河守任官・・・。

三河が織田領国とするならば、家康がなぜ三河守を名乗れたのか?

それがずっと頭から離れませんでしたが、

関白近衛前久から藤原姓を許可してもらうという前段がありますが、

三河守護が藤原氏でなければならないという意味が不明。

室町以前、三河を基盤とする足利家は源氏でしたし、

室町幕府下で吉良氏や仁木、今川、一色、細川といったところは源氏足利同族です。

藤原の三河守といえば、

三河安祥を攻略した織田信秀が、

朝廷に献金上奏して三河守を貰うということが1540年にあるようですが、

織田信長が初期に熱田神宮に藤原信長と署名するのもその流れの為でしょうか。

藤原氏長者の近衛が、系図まで探して得川にしてあげたというのも、

得川は新田氏系で、藤原氏の系図とどうつながるのか不明です。

三河国司は古くから大伴氏系統で、源ノ頼義や、義家に従う三河武士は

大伴=設楽=冨永一族です。なぜに藤原?

矛盾だらけでは?。



1566年に足利義昭を利用した一色龍興の謀略にはまって、

織田信長が敗戦するという、公記には記されていない敗北があるそうなんですが、

そのからみで、三河守護一色氏を意識する龍興に対抗する政治的手段として、

三河守任官を信長が許可したのでしょうか。

1567年には前年に上野を攻略した武田信玄が、矛先を駿河に向け、嫡男・義信と対立し

動きが鈍りますし、武田を意識した動きなのか。

また、同年に家康の息子・信康と五徳姫の婚約が成立し、

家康は準一門衆だという扱いで、その約束のうえに三河守を許可したのか・・。



秀吉の筑前守や、光秀の日向守のように、その官位には

特別な意味は無く、ただの贈り名のようなものなのか・・。

現代人の思う家康の「三河守」は、意味があるようでないのかもしれません。


そもそも、

徳川三河守殿とかいう書状はあるんでしょうか、

あるとしても、それは本物でしょうか?(写しとかなら信用ならないんじゃ?

炭素年代でもはかって、そこから突き止めないといけないものでは?


山科氏の記した記録にある「三河守」任官の年度は確かなものなのでしょうか。

江戸300年の間にできた捏造や、誤解、曲解した歴史なのでは?

通説というものも、根本で間違っているのでは?

暇があれば食いついて、とことん調べてみたいネタでもあります。

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コメント

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たしかに

そうですね~。

贈り物であったろうし、

家康もそれを希望していたから、

与えられたものでしょう。

歴史家の方々や、

自分自身の考えすぎも、

よくないなーという結果かもしれません。

当時の人達の感覚を、重視しないとですね。

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