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登美ノ勝也

Author:登美ノ勝也
武将について語りたくて「天下侍魂」というHPをつくりました。織田信長の家臣団とその六大軍団長たちの家臣団、戦国・室町・鎌倉の大名達とその家臣団について探求していきたいと思います。
リンク先のHP「天下侍魂」ぜひ御笑覧くださいw


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明智光秀(40歳)

国語099

「火焔の将星」の挿絵のつもりで描きました。

小説は、明智光秀が美濃に

信長様を訪ねてくるところ

くらいまで、やっときました。


40歳といえば、今の自分の実年齢と同じ。

光秀さんは、遅咲きだったんですねえ。

ということで、若干ひねた人相になっています。

朝倉家で苦労してやつれてたかなあ~とも思いまして。


ちょっとやさぐれた青年貴公子

みたいな感じだったんでしょうか。

1568年当時の織田家にはなかなか

いないタイプだったんじゃないでしょうか。


織田家は、異相の者多しで、みんな、カブイテル風かな?

よろしければ、リンク先のところから、


「火焔の将星」みてみてください。



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コメント

初めまして。
ちょこちょことHPを拝見させてもらっている者です。

その中で疑問に思ったことがあるのですが、織田信長の馬廻について書かれているページで、近衛軍の地図がありますが、徳川の家臣の牧野氏が東三河でなく駿河の東端の方に居ますがどうしてなのでしょうか?

個人的に疑問に思う理由は、実のところ私は信長の馬廻の福田三河守の末裔で、先祖の私記には三州牛窪城主であったことが書かれています。ただ、牛窪城は牧野氏の居城なので、それは違うだろうと思っていたところ、管理人さんのHPを見て、あれ?と思ったので書きました。

長文すみませんでした。
m(_ _)m

牧野氏について

はじめまして勇者様!

あの福田様がご先祖とはっ!!

牛窪城主というのも、おもしろいです。

ありえるかもしれませんね。



1582年に武田氏が滅びてから、織田家主導で

東海道でいろいろな配置替えが実は

あったんだと思います。

家康が信忠領を簒奪したので、

江戸時代に、「神君 家康」にとって

不都合な1582年の出来事は

なかった事にされているのだと思います。

牧野氏は東三河の有力外様で、

家康の祖父・清康と

三河の覇権をかけて争ったくらいですから、

織田家に家康の与力として付属されて、

1582年には駿河の長窪城、相模北条との

前線に配置されていたようです。

いろんな歴史書に「家康五カ国領有時代」

とされる時期の城主配置図には、

牧野氏、三宅氏(深沢城)といった外様に、

東条松平の陣代・松井康重が駿河沼津城に

配置されていたりという事になっているので、

江戸幕府的にも都合よくは

隠し切れない事実のようです。

(「陣代」という身分の武将がけっこういて、

 本家当主は幼少だからとかいって、

 家康(もしくは信長?)は、

 けっこう自分のゆうことを聞く分家の人とかを

 旗頭に据えているようです)

管理人様、回答いただきありがとうございます。

なるほど、そういう可能性もあるわけですね。
総見公武鑑でも家康が信長の家臣(七副将)として挙がっているので、可能性はあるとは思ってましたが、個人的にはあるとしても一色城だと思ってました。

牧野氏が牛窪を離れていたことは全く知りませんでしたので。

とりあえず、城主だったかもしれないという夢を見ることは出来そうです。

ありがとうございました。

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