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登美ノ勝也

Author:登美ノ勝也
武将について語りたくて「天下侍魂」というHPをつくりました。織田信長の家臣団とその六大軍団長たちの家臣団、戦国・室町・鎌倉の大名達とその家臣団について探求していきたいと思います。
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長篠・織田鉄砲千丁説ありえん

出張の行き帰りで読んだ本の感想(笑)。

戦国時代の鉄砲の普及に関して、

地方の大名では
1555年「旭山城の合戦」に武田信玄は鉄砲300丁。

1569年「立花山城の攻防」に大友・毛利両軍で鉄砲1200丁。

1584年「沖田畷の合戦」に島津・竜造寺で鉄砲4000丁。

畿内の傭兵軍団「根来衆」制圧に
1585年秀吉の「根来攻め」には鉄砲7000丁が
用いられたそうです(『種子島銃の合戦での使用』三木靖)。

小和田哲男氏の調べでは、

武田軍の「軍役」での装備率は9122人に対して630丁で全体の7%(『甲陽軍鑑』)。

上杉軍は5504人に対して316丁で6%(『天正3年上杉軍役帳』)。

島津義弘軍は朝鮮の軍役で1万人に対して1500丁の準備が課せられていた様子。

徳川軍は慶安2年の「軍役」で2155人に対して350丁で16%。

伊達軍は「関が原」に40%が鉄砲衆だったようです。

1581年の明智光秀の定めた軍役では全体の16%が鉄砲の部隊(『戦国大名』奥野高広)。

「長篠の合戦」で従来説では「ほあん版」で、
3万人に対して3500丁で12%。

太田牛一が自身所属していた
信長(旗元)馬廻衆最強を
『信長公記』で最も言いたかった事とすれば、

「長篠合戦」で記述されているのは(旗元)馬廻衆の動きで、
酒井忠次遊撃軍に付属させられた、
金森長近率いる500丁の鉄砲隊とあわせて、
信長の(旗元)馬廻衆の「千丁ばかり」は、
塙・福富・前田・佐々・野々村を隊長とする
(旗本)馬廻衆の装備を指していると考えられます。

<「千丁ばかり」というのは、

「別にたいしたことないねんけど
 俺たち馬廻衆だけで千丁~」
と得意げにゆってんじゃないでしょうか。>

信長の馬廻衆は弟・信行との戦闘の頃は600人ばかり、
上洛後は増強されて2800~3000人といわれています。

2800人に1500丁、もしくは3000人に1500丁としても、
「関が原」の伊達政宗軍を上回る火力の%を、
信長馬廻は持っていた
ということなんじゃないでしょうか。

馬廻衆を除いた、
佐久間信盛、瀧川一益、丹羽長秀、羽柴秀吉、明智光秀たち
宿将の部隊からなる
織田軍全体としては、明智光秀の軍役にある
16%くらいが当時の平均で妥当なのかもしれませんが。

信長様直属の部隊は、斎藤道三を
長槍、弓衆、鉄砲衆で驚かせた頃と変わらず、
常に装備が際立って異常だったと思います(笑)。

故に最強、というか皆、「信長直属(旗元)馬廻衆」に
憧れたんじゃないでしょうか。
<『公記』では「旗元」とも表記されます。
 江戸幕府から定着の「旗本」は
 できれば使用したくない(笑。>

政宗は信長マニアですし、より模倣が顕著だったんじゃないでしょうか。

ということで、織田全軍で鉄砲千丁説、「ありえん」。

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