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登美ノ勝也

Author:登美ノ勝也
武将について語りたくて「天下侍魂」というHPをつくりました。織田信長の家臣団とその六大軍団長たちの家臣団、戦国・室町・鎌倉の大名達とその家臣団について探求していきたいと思います。
リンク先のHP「天下侍魂」ぜひ御笑覧くださいw


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畿内のレアメタル?銅資源危機と、出雲の青銅器

「富本銭」が貨幣として流通しはじめていたとしたら、
大量に必要となる原料になる銅について、当時どうやって入手したのか?
という根本が気になり始めました。

私なら、「古い銅器を鋳治せ!」といって
新しい時代の息吹の為に
革新的な気分で[リサイクルの鋳造し直し]を
やったことでしょう(笑)。

仏像は、当時流入してきた最新文化だから鋳直しは対象外、却下ですね。
となれば、秀吉の様に、豪族たちに「廃刀」させて、武器から作り直します。

武器庫といえば、石上神宮の中の・・・。

畿内に青銅器が少ないとかは、リサイクルによる
鋳造のしなおしが原因なのではないかと思えてきました。

また、国外流出の機会もあります。
そうです「白村江の戦い」です。
謎の4世紀からの海外での動きは、
おおくの物資(武器)を国外に運ぶことになってしまったのでは。

それから、貨幣の鋳造と、奈良の大仏の建造、
これは銅資源の危機でもあったと想像されます。

石上神宮の武器庫は朝廷の優越性の根源でもあるので、
最後まで保管するとして、
地方豪族たちには、資源の供出を積極的に要求したことでしょう。

地方豪族としては、伝来の製品を、大和朝廷に渡す屈辱も味わうことになります。

長い歴史の間に、出雲も
当然そんな要求をされることがあったかもしれません。

その立場であったら、伝来の宝物を守るために、どこかに隠す事を考えるかもしれません。

出雲の青銅器は、
大国主の「国譲り」の「降伏の儀式」で埋められたのか、
それとも後の世の神官たちの、
中央への密かな抵抗だったのか。

埋められた年代で、いろんな想像ができそうです。

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「十」 もぎきと富本銭と

前回の続きで、富本銭について、まだ考えていました。

「本」を、大と十で分解して考えた場合。

大は、神に例えるならば「大山津見神」
天皇家の祖、山幸彦に通じそうな神です。

十は「もぎき」とも読めるようで「木の神」を現しているような。
木の神といえば「高木神」や、「高御産巣日神」に通じそうな感じです。

しかしながら、やはり両サイドに施される「七曜」の北斗七星に通じる文様と、
その両神がどう関わってくるのかが謎です。

やはり、天武天皇らしい独自の「道教」哲学から導き出されたものであるなら、
「圭」もしくは「奎」と考えるべきなのか・。

大陸では、「圭」は儀礼に用いた玉を意味し、
重量や容量の単位でもあり、「きよい」意味もあるそうです。


「奎」ならば道教の28宿のひとつ。
西方の第一宿、「とかきぼし」と読み、
「文昌帝君」という文章の神様とも。

七星とどのような関係があるのかは、
道教に詳しくなって
もうすこし検討してみないとですが。

前回の考えも捨てきれないので、
天武天皇が推し進めた律令政治の「王土王民」思想、
重きを置いた伊勢神宮と、外宮の大土御祖神、
大山津見神と、もぎき。

このキーワードで、掘り下げていきたいところです。



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伊勢神宮と富本銭と天武天皇

img190.jpg
最古の銅銭、「富本銭」を描いてみました。
手書きで円を描くのって難しいですね(笑)。

富は「ウ冠」の富(最古は冨ではなく富か)。
本は「大」と「十」に分解されています。
外周の縁取りを「一」として考えれば十は「土」となり
「大土」と描いて、天武天皇の整備した伊勢神宮の外宮の「大土」に通じると考えました。

土にも意味があって、土と土を重ねれば「圭」
圭という漢字も、目出度い意味があるようですし、
他にも道教的には
「太一」の合体で、画数的に「大十」と現されているようにも見て取れます。

祭神の豊受大神は穀物豊穣の神であり、天皇直轄の「たんぼ」の神でもあるようです。
穀物の神といえば大宜都比売。
大宜都は、大気都→沖津に通じるとも思えます。沖津といえば海の神ですね。
「大海人皇子」の海にふさわしい神なのではないでしょうか。

中央孔の両側には、「北斗七星」に通じる七星。
口の形の孔は、さしずめ「北辰」=「北極星」を現しているんじゃないでしょうか。

天武天皇の代から、「天皇大帝」の「天皇」の呼称を用いる事も、
北極星信仰をかなり意識しているのでは。

北極星の王、辰王といえば、古代朝鮮の「辰国」へと通じます。

聖徳太子の頃、「倭」が中国から「秦王国」とよばれていたのは、
「辰王国」の王統も継承していることが当時公然だったからでしょう。

4世紀頃から、葛城、平群、穂積、大伴、物部、蘇我など有力豪族が、
多く半島に派遣される中で、いつしか、あちらの王統の血もとりこみ、
有力豪族と天皇家の政略結婚などで、
母系で渡来の血が、畿内豪族の中にも入ることなどもあったのではないでしょうか。

そこで、大和朝廷が、半島南部支配の正当性を主張する為にも、
今はなくなってしまった
「辰王国」の、新王国なのだ!!と、現代でもあるような
領土争いにつきものの主張があったのかもしれません。

騎馬民族征服王朝説で、辰王国と辰王が取り上げられますが、
私はその説はとりません。
日本古来の地名や、大和言葉、イザナギ・イザナミ神、大国主、
『記紀』の系譜や、旧事の国造が、断絶しているとは思えませんし、
考古遺物のヒスイの分布についても、説明できないんじゃないかと思います。

話しが大きくそれていきましたが、
天武天皇は、道教の思想にたって、国を治めようとしていたんだろなあと。
伊勢神宮と、富士山を結んだライン、「富本銭」から何か視えてくるものが
あるんじゃないかと思っています。
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征夷大将軍・大伴ノ弟麻呂

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大伴氏の凋落はいつ頃からだろうと
気になり初めまして、

古代軍事貴族について、HPを読み返しています。

大宰府の守備や、東北の蝦夷に備え、
西に東に、南に北に、
またまた都の「門(関所)」の守備など。

疲弊していく大伴氏と、
当時『万葉集』を編纂した人たちの想いも気になるところです。

当時は、平和ではないわな。

辺境守備は中央の流れからははずれ、
天皇の側からは遠ざかり、

次第に、出張先に根を降ろして、都の政治基盤をなくして、
地方の豪族へと変化していったのでしょう。

天武朝以降に、婚姻関係を結んだ多治比氏や、
藤原氏との関係も、重要なところだと思います。

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藤原ノ道長

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道長卿のつもりで描きました。

筆ペンを使用したら、全体的に輪郭が太くなってしまいましたが、
平安朝なので、まあ、よかろうw。

関白太政大臣家の5男・・・・・。


どんな風にそだったことでしょう。
社会人スタートは、下級役人級の出だしだったでしょうか。
甥との弓の稽古での話からは、けっこう気の強い感じが伝わってきますし、
野望に燃える青年のような感じもします。

ということで、
かつて聖徳太子に鎧を着せて描いてしまいましたが
(根拠は、自分が河内出身なので、太子ゆかりの地名など伝説から、
物部氏との合戦に参加した勇ましいイメージが定着しています)、

道長卿にも弓と刀を背負ってみてもらいました。むりやり(笑)。

・・ところで、
織田信長が最後まで信長の名を貫いた件について思ったことが、
天皇の外戚として権勢を誇った藤原道長にあやかる気持ちもあったのだろうか・・
とも思えてきました。

信長嫡男の、信重から信忠への改名などは、平家政権をイメージしての
平ノ忠盛や、平ノ重盛などの名を連想するものではありますが。

藤原氏外戚の秦氏についても気になっていて、
惟宗氏が秦氏嫡流に与えられた名で、
惟宗氏から、神保氏や、三宅氏が派生しているのであれば、

丹羽長秀や明智光秀が、惟住・惟任の姓を与えられるのは、
朝廷の関連する屯倉や、荘園を復興するために、
秦氏系の旧領を回復する目的で、織田家が再利用したのではないのかという
疑念をもたずにはいられません。

山城・丹波を制圧することに、惟宗系の姓は有効だったのでは?

室町三管領家畠山氏の旧領を支配することに、
その執事である神保姓や、三宅姓は有効だったのでは?

というか、秦氏を匂わせる姓を名乗ることで、秦氏系の旧領地を支配する
正統性を、織田家が持ちたかったのでは?

と思わなくもありません。

無言のカリスマ信長様のやりたかったことを想像するのは実に楽しい。
さすがにもともと神官の織田家なだけあって、
故事に由来することを重視し、政権の正統性を無言で誇示しているような
(徳川史観の成立過程で消滅させられたのかもしれませんが)、
なんでも利用する合理的な思考が見え隠れしているような気がします。

それにしても、日本史の背景にあるもの、天皇家と大伴氏の関係、
藤原氏と伴氏の関係、徳川家と富永家の関係、
列島人の歴史そのものが、
徳川史観により消された氏族、大伴氏の歴史であると思えてなりません。

・・・・・・・・

古事記の太ノ安麻呂が記す、
いずれ考えるものが解明するだろう、という姿勢。

歴史ってやっぱりそうだよなあ~と思える一言です。

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藤原ノ隆家

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隆家のつもりで描きました。描く際に、

平安時代、源平争乱前の鎧兜はどんなものかなと、悩んでいます。

日本海沿岸、対馬、壱岐、北九州を襲撃した、「刀伊の入寇」の頃、

大陸系の鎧の影響を受けつつ、

より実戦的な形状となって、大鎧にいきつくのか・・・。

「平ノ将門の乱」は農民なども巻き込んでの、大量生産の皮鎧などのイメージ、

「藤原純友の乱」は漁民など巻き込んでの、唐風な鎧かつ、泳げるような軽装。

異民族との命の削りあいから、実戦的かつ装飾の施された高級品へと、

「源氏の野望」からなる東北の征服と、蝦夷の長・安倍氏との抗争。

武芸という芸道に打ち込んだ末の生まれた「武士」という戦士のみが着ることができる、

「大鎧」へと繋がるのかなあ・・と妄想。

しかし、坂東平氏の豊嶋家の黄金鎧は、どんだけの重さで、

総額いくらくらいなのだろうと。。。

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