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登美ノ勝也

Author:登美ノ勝也
武将について語りたくて「天下侍魂」というHPをつくりました。織田信長の家臣団とその六大軍団長たちの家臣団、戦国・室町・鎌倉の大名達とその家臣団について探求していきたいと思います。
リンク先のHP「天下侍魂」ぜひ御笑覧くださいw


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『上記』とサンカ、奥三河の「山家三方衆」

『上記』というのは、鎌倉幕府成立後に豊後国守に赴任した大友能直が、

豊後に伝わる古文書を集めて編纂したということではあるが、

関東にいた時代に、「サンカ」衆という「山の民」を虐殺して、

その古文書を奪ったものであるともいう。

「山の民」や、サンカと聞いて頭に浮かぶのは、

戦国時代に奥三河に割拠した、山家三方衆。

「ヤマガ」と読むようであるが、「サンカ」にも通じるものか。

「山の民の味方衆」とも解釈されそうである。

「山の民」のそういう伝承がいつまで伝わっていたことだろう。

ところで、

山家衆の奥平氏や菅沼氏の出自は、土岐氏や富永・設楽・瀧川氏から婚姻による血を得て、

名家と結びついていると推測される。

南北朝時代の影響で、三河や信濃の山奥には、南朝方の勢力が根強く残っていたのだろう。

南朝を支えていたのは、古来からの「山の反抗勢力」だったのだろうか。

権力から追われた反社会の人達が、再び「帝」を担いで、山を拠点に活動する繰り返し、

不屈の精神です。

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母系の祖・玉依姫

最近関心を持った『上記』と『富士宮下文書』

九州王朝以外の、王朝の系譜。

玉依姫の系譜をひくため、両王朝の系譜は

同様の神器を持ち、統合されていくということか。

玉依姫に始まり、玉依姫に終わる。

夢想・空想なのか、それとも歴史を伝えるか、

考えず済ませるより、

考えてみることも一興かと・・、

読み解いてみよう。

しかし、70代近くある系譜というのは、

少しの関心で、考えるにしては長すぎ・・・。時間がほしいなあ。

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古代人記憶の残渣。イザナギ→磯城(イソキ)→稲城(イナキ)

今朝ふと思い立ったこと、とりあえずメモ。

神武東征以前の列島人の集合体は、

始祖イザナミ→泉国(いずみくに)→黄泉(よみ)→出雲(いづも)→スサノオの系統である

出雲王朝ともゆうべき団体と、

畿内王権である、始祖イザナギ→

三輪氏の本拠である磯城(「いそなぎ」または「いそき」)伝承の読みの変化による「しき」。

物部氏の本拠である稲城(「いなき」)と、その枕詞のような志紀「しき」。

出雲王朝と、畿内王朝の連合体が、葦原中津国豊秋津国だったのだろうと思います。

その中で、両勢力の統一過程や変遷が、大国主17代の記憶となっているのでは・・。

九州の王朝が、東征し畿内の覇者になる過程は、

畿内の王・安日、その弟・登美の長脛、その娘婿・ニギハヤヒ(九州人)が、

それぞれ前者を殺し、政権が移譲していく過程に現されているのでは。

安日の子孫は、東北へのがれ、

登美の子孫は、従うものは大伴氏の祖となり、

ニギハヤヒの地をひく、ウマシマジは物部氏の祖となり、

王朝を支えていったのでは・・。

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蘇我=素賀=飛鳥

古代史のページを更新中。

蘇我氏は神武東征の次段階から、

素賀氏として家臣団の中にいたと考えます。

国司的な立場として、素賀の地を領していたと考えます。

「大化の改新」の政変以降、『記紀』では蘇我の名を書き換えられ、

なぜ政権の中枢に上り詰めたのかも隠され、

現在では、あたかも渡来氏族であったかのような不当な扱いをうけているのでしょう。

物部と蘇我は婚姻を重ね縁戚でもあり、

ぽっとでの成金豪族ではなく、由緒正しく大王家の重臣であったのだと思います。

だから大和川水系の重要な中心地を掌握しているのでしょう。

「素賀」視点で、歴史書を見直してゆけば、

その書の成立時期や、執筆者の立場が明らかとなっていくのではないでしょうか。

そこから、その文書が、上古の、信頼に足る文書かどうかを

ある意味判断できるようになっていくのでは?。

と思う今日この頃。

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世界遺産登録で思う事

古代の百済、新羅、高句麗の歴史を見ていて思う事です。

現在の朝鮮半島人民は百済人とは関連の無いカイ族末裔では?


百済王家、高句麗王家は扶余族の後裔なのでしょうが、人民はどうだったのでしょう。

日本人が建国したと言われる新羅は、その後
地元有力者のカイ族(カイ=漢字では、さんずいへんに歳)

と結びつき、カイ族から出た王が

実質的に国を動かすようになっていったと思われます。

百済はといえば、国滅びて山河あり、中国に連行された捕虜や、

日本に逃げ延びた人など、

散りじりバラバラになったことでしょう。

では、現在の半島南部に暮らしている人たちの祖は誰なのか・・。

新羅が統一したのなら、カイ族が支配したということでしょう。

また、10世紀の白頭山の噴火で、カイ族の南下はさらに濃く引き起こされた事でしょう。

百済人、それに先登る、馬韓、辰国の人達は、もう半島南部には

残っていないのではないでしょうか・・。

そのあたりの事情が、『日本書紀』に影響をあたえているような気がします。

百済援軍に参加した古代日本人で、唐の捕虜になった人たち、
囚人生活の末に異国で客氏した人々、

海を越えて同盟国の為に死した、「名もなき戦士たち」に、心よりご冥福を

お祈り申し上げます。

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