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登美ノ勝也

Author:登美ノ勝也
武将について語りたくて「天下侍魂」というHPをつくりました。織田信長の家臣団とその六大軍団長たちの家臣団、戦国・室町・鎌倉の大名達とその家臣団について探求していきたいと思います。
リンク先のHP「天下侍魂」ぜひ御笑覧くださいw


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祝!5万カウント達成「天下侍魂」

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HP「天下侍魂」ついに今日、5万人達成しました。

だいたい1年間で1万人の方が閲覧してくださっている感じのペースです。

小学生の人達が、間違って買わないようにアフェリエイトもはずしたし、

安心して、利用してもらえればいいなあ。



嘘は書かないように、努力したい。

安易な間違えや、勘違いもあるでしょうが、

できるだけ、早期発見してケアレスミスをなくしていきたいです。


外国の方にも、日本史の中の「侍魂」を

わかってもらいたい。


まず内容を信用してもらって、

自分が考えている歴史の疑問点を示し、

本当の真実はどこにあるのか、

一緒に考えてもらえる人を増やしていきたいです。


あとは生活に余裕がでてきたら、趣味のイラストも

充実させたいところです。


これからも、「天下侍魂」と、このブログ「しょうちん公記」

ともども、どうぞ宜しくお付き合い下さい。


「歴史」が好き な思いにブレはないです。頑張ろう。


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応仁の乱以降の三管領四職ほかの動向


いままでの悩んできたもろもろの成果として、

こんな表を作成してみました。→HP「天下侍魂」を参照してください。


みどころは、義澄政権での東軍方の復活、

第二次義稙政権での西軍方の復活、

これで、いろんなことが、ややこしくなります。

でも、総合的には西軍方の人達が、

潰されていってるようなきがするのは、気のせいでしょうか。


悩んでるところは、摂関家の九条家。

「半将軍」細川政元が、なぜ摂関家からの跡職を所望したのか、

なぜ廃嫡にしなければならなくなったのか、

このへん、追及したいところです。


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「本能寺の変」と「永正の錯乱」の類似点

「半将軍」細川政元の暗殺事件、「永正の錯乱」。

管領・細川政元が摂関家の九条氏と親しくなり、

1502年養子に九条澄之を迎えるも、

のち廃嫡を考えたところ、澄之を支持する宿老の香西や薬師寺により

丹後若狭遠征軍の指揮を自らとろうとした、政元が暗殺され

一色家・石川氏による、政元軍の指揮官・赤沢朝経襲撃

というオチにつながる事件です。


織田信長の場合は、摂関家の近衛とも親しくなり、

また誠仁親王との親子のような特別な関係。

朝廷との権力の上下関係を定めようとしたところの、

中国遠征軍の指揮を自らとろうとしたところの、宿老・惟任光秀の謀反。

それに連動した伊勢貞興らの、織田軍の指揮官・織田信忠襲撃

につながる事件。


最高の武家権力者が、朝廷との関わりを持ち、

それを抑え込もうとしている段階での、

配下の武将の裏切りにあう事件。


「魔京」の成せる技か・・・。


秀吉は、朝廷を保護し軽んじようとせず、

一定の距離感を維持した為に、

うまく切り抜けたのでしょうか。


それでも、結局の

秀頼の排除は、誰の意向だったことでしょう。


先の将軍、足利義満の死も、

何か疑いを持たずにはいられませんね・・。


それだけでなく、鎌倉幕府の

公家将軍も、北条家との何かの密約なのだろうかと、

疑念を持ってしまいます・・・。

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斯波義寛と、村上顕国(義清の父)

今日は武田信玄の信濃進出を阻んだライバル、

村上義清さんの父、村上顕国が斯波家の縁戚だった件について、

斯波義寛さんの娘婿ということで、

なんと足利将軍・義澄と義理の兄弟になります。

この政略婚は1493年の明応の政変以降のことでしょう。

尾張・遠江の斯波と結んで、

やはり武田に圧力をかけるのが目的かと・・。

1484年に信濃に進出してきた武田家に勝利していますので、

斯波側にしても、あてにできる政略婚と考えられたかもしれません。

(1500年斯波氏が小笠原氏に援軍を要請した件もあるので、

 村上、小笠原の関係もきになるところです。)

1480年代の頃、今川家の当主は小鹿今川。

1476年今川義忠が遠江で戦死してから、

1487年の伊勢早瑞のクーデターで就任する今川氏親まで、

この期間とくに戦乱の話もないということは、

遠江今川と小鹿今川は、斯波家とはいい感じ

だったということでしょうか・・。

なので1481年斯波義良の越前攻めが可能だったのでしょうか。

1487、91年の足利義尚、義材の六角攻めにも将軍の威光もあり、

斯波氏の出兵が可能だったのでしょう。

上洛のたびに斯波家の兵が通過する三河は、

東軍についた西条吉良と、細川成之の領地はどう通過したのか、

東条吉良は西軍らしいですし、

根っから西軍の一色義直、義遠兄弟と、一色からの養子の美濃の土岐成頼、

斎藤利国(妙純)と北尾張の織田伊勢守、

根っから東軍の織田大和守、

その主君、東軍閥の斯波義良と、

渋川義廉の血を引くなら西軍の山名氏の血をひく、

斯波義寛との関係・・。どこまでも範囲の広がる複雑なパズルです。


できることなら古文書を調べて、

1472~1481年までの斯波義良の筆跡と花押、

1485~1494年までの斯波義寛のものと比較して、

別人格なのか、同一人物なのか、確認して納得したいものです(涙。

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斯波義敏、織田敏定、信長、太田牛一

1472年遠江では斯波義良を当首に、対今川。
1481年叔父・斯波義孝、甲斐、二宮が参加し、
「越前朝倉攻め」
(経路が問題です。二宮氏は信濃と加賀に縁があります)
しかし朝倉氏景に敗北。甲斐氏の没落です。


1475年越前では大野の斯波義敏が、朝倉に敗北し
南尾張の織田敏定を頼ります。
1478年敏定は幕府公認の守護代に認定されます。

1471年朝倉に越前を奪われた斯波(渋川)義廉は、
北尾張の織田敏広を頼ります。

1481年敏広は尾張の争乱に戦死。
同じ年、上述したように
斯波義良は越前に攻め上るも大敗。

この1481年がターニングポイントだと思うのです。

斯波義敏はこの年、自分の正当性を主張すべく「斯波家譜」
という書を記します。

書を残すというのは、けっこう敗者の側がする行為です。
今川貞世(了俊)しかり、

「信長公記」しかり・・。

1481年頃から朝倉方では、自己の守護職安泰のため、
苦肉の策として斯波(渋川)義俊を御所として擁立し、
建前上の越前の国主とします。

この行為は、織田信長もやってるのですが、
「信長公記」では詳しく書かれていません。
やはり都合の悪い事は削除するのでしょう。
その点で、同じ立場にある朝倉氏のことも悪くは書けない
という前提ができるわけです。


1483年頃から斯波義寛が新しい当主となり、
1487年、1491年と幕府に従い、
2度の南近江への遠征があるのですが、
これには朝倉貞景も参陣するそうです。

がしかし、守護職を奪った朝倉の越前の事は不問にされます。
それはなぜか、まさに
織田家も同じような立場を目指しているから
なのでは?。

また、斯波義寛が、朝倉の擁立した斯波義俊と
同族(兄弟?)なので、義俊の身の安全を考えると
攻撃する名目が立たなかったのでは?。

1493年管領・細川政元の「明応の政変」
これで、足利義材(義稙)に近い斯波義寛の立場は
危うくなります。

また、1495年頃に織田敏定は亡くなるそうです。

数々の玉突き現象の上に、
「下剋上」で、都合の悪い事は伏せる。

また、1481年の越前表での斯波氏の大敗を受けて、
1482年頃に独立。その後の今川氏親の遠江への侵略を
目立たなくするための今川氏の都合もあいまって、

義良、義寛が同一人物なのか、別人なのか
義達の親が誰なのかが、
がはっきりしないのでは。

太田牛一はわかっていても、
織田信長の立場をおもんばかって、
斯波氏について詳しく書き残さなかったかもしれませんね。


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関東公方戦奉行・一色直兼

関東鎌倉公方に出仕した、嫡流に近い一色氏があり、

室町将軍の幕府軍と戦った一色直兼が気になります。

彼の一族、一色持家、時家が、四職を務める分家の一色氏を頼り、

一族は彼らをかばい、三河に匿ったらしいです。

(当時の関東管領・上杉憲実の室も一色氏の娘の様です。すごい政略結婚技。)

将軍・足利義教が、それを口実に、

一色義貫、土岐(土岐嫡流・世保)持頼が誅殺されるに至ると・・。

(庶流西池田・土岐頼益がわざわざ養子の一色成頼に家督を譲るのも母系で何か理由があるのでは。)

関東との結びつきを、義教に嫌われたのが第一なのでしょうね。

一色氏の影響力は、この頃、

三管領の細川・斯波・畠山を上回るものだったのでは?。

義教のような将軍でなければ、もうすぐ四管領になれてたかもしれませんよね。

三管領家の嫉妬もあり、出る杭は打たれたのかもしれません。

いつの時代も、男の嫉妬はおそろしい。

さて、一色氏の重臣で気になる人物がいます。

三方範忠さん。

三方氏は若狭の豪族で、なんと、若狭氏の系譜。

若狭氏となる前は、津々見氏、その前は島津氏、その前は惟宗氏。

キタコレw。

惟宗氏は摂関家に出仕する京都侍の姓です。

やっぱり、信長様の地元重視路線で行く政治手法なら、

織田家重臣の惟住、惟任姓は、九州の名族からとった、

という奇想天外な命名法ではなく、

摂関家と京都侍を意識し、かつ若狭方面の朝廷領の横領もしくは、

復活と保護と、正式な代官職という正道の

ことでの改姓だったのではないでしょうか。


という結局、織田家オチの方に話は行くのですが、

この若狭の三方氏の子孫が、丹羽長秀や、明智光秀の家臣団や

一門の婚姻関係にどうにか絡んでこないものなのかが、

気になるところです。

播磨に残る三方氏と同族の島津一族なども・・。

明智光秀はこちら側との結びつきだったのでしょうか。

若狭はもちろん丹羽さんです。

いかが?。

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斯波義雄、織田達勝、柴田勝家

1500年の斯波義寛の弟たち、

斯波寛元、斯波義雄の遠江遠征、駿河今川攻めについて、

その経緯や、決着が不明な点、すごく気がかりです。

徳川家康の出自などにも絡み、

東海道の1490年代からの情報は、江戸時代にことごとく抹消されているか、

筋書きが書き換えられている・・とゆうことなのでしょうか。

(「古事記」・「日本書紀」も、このように歴史に手を加えて残されているものなのか・・。

「先代旧事本紀」や各地の「風土記」と比較していかないと真実はみえてこないのでしょうね。)


柴田勝家の「勝」の字が誰からの偏偉なのかということが、

ずっと気になっていました。

勝家のすこし先の時代といえば、清洲の織田大和守達勝がいます、

守護代・織田家の当主は代々、斯波家の当主から元服などの際に名前を与えられている様子。

斯波義敏は清洲の織田敏定や、岩倉の織田敏広、織田敏信に。

斯波義良は、弾正忠家の織田良信にでしょうか、

斯波義寛は、織田寛広や、織田寛村に、

斯波義達は、清洲の織田達定に、

斯波義統の代は、何故か清洲の織田は、織田達勝・・・。

斯波義寛の中央の立場が怪しくなった1493年の政変と、

斯波義達の成人、家督継承(1505年頃?)までの代理に、

斯波義雄(義勝)がいて、織田達勝に偏偉を与えていたりしないでしょうか・・。

当時、名前は簡単に略字したりしますし、耳聞きで名を知った人が、

あて字で文章を書き記すかもしれません。

佐久間は作間とされたり、資は助と略されたり、

なので義雄は、義勝なのかもしれません。

織田信勝なども、信長の弟(信行)以前の

信勝の名を持つ人物がいるようですし、

丹羽長秀の家中に青山宗勝やら、古田重勝やら、

「勝」字が増殖していくことも、不思議におもうところです。

柴田勝家の武勇にあやかってなのか、元服に立ち会う事が多いのか、

実は勝家は、織田家の中では大人気なのかと思う部分でもあります。

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土岐、一色、斎藤妙椿

戦国の松永久秀よりも、

河内の木沢長政よりも、

尾張の織田敏定よりも、

美濃の斎藤妙椿は、その先を行ってるんじゃないのかな・・

という感想です。

吉良・斯波家の婚姻による結びつきも見逃せませんが、

一色と土岐氏の関係も、侮れないものがあったのでは。


それを恐れて、

将軍・足利義満が土岐康行を計略にかけ、

将軍・足利義教が一色義貫と、土岐(世保)持頼を同時に討ち、

将軍家が数世代かけて土岐家、一色家の力を削ぐ努力をしてきたが、


美濃守護家の土岐(池田)が、

一色家から養子を迎え土岐成頼とすることから、

その流れの中で、のし上がってきた斎藤妙椿がいて、

妙椿が家宰として、土岐・一色の名の下に自らの正当性を主張し、

土岐・一色の過去(所領国)の遺産をすべて統べる程の権力をえることが

あったんじゃないでしょうか。


それにつづけとばかりに、養子の斎藤妙純や、

家臣の石丸(斎藤)利光の下剋上スピリットが美濃には定着し、

長井長弘をへて、斎藤道三の登場へと受け継がれたのではないでしょうか。


将軍・足利義輝は織田信長よりも、斎藤義龍を認めていたようですし、

義龍は将軍の後押しの下、土岐家の北伊勢、美濃、北尾張の回復を

目指していたかもしれません。


その息子、斎藤(一色)龍興は更に上の、一色氏の所領、丹後、丹波、若狭、美濃、

北伊勢、三河、尾張知多・海東郡を視野に入れてたかもしれませんね。


1560年「桶狭間」直前の織田信長と、将軍・義輝の面会、

義輝の反応はどうだったんでしょうねえ・・。

足利に連なる「武衛」斯波家をないがしろにする信長より、

美濃の斎藤家の方が、義輝は大事だったのでは・・。

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吉良、斯波家の同盟

1467年「応仁の乱」以降の斯波家の動向が

ずっと気になっています。これがはっきりしないと、織田弾正忠家の立ち位置が

いつまでも決まらない(笑。

西軍の斯波・渋川義廉、東軍の斯波義敏。

義敏は「応仁の乱」前の長い期間、西軍の主力となる大内家にお世話に

なっているにも関わらず、東軍。・・幽閉されていたのか?。

義廉は山名持豊の娘婿とはいえ、九州探題職を大内家と争う渋川の出身。


次世代の斯波義良が、義敏の息子というのは間違いないと思います。

斯波義寛は、渋川義廉の息子でよいのじゃないでしょうか。


将軍・義尚とは「応仁の乱」の収束で和解が成立し、近江の六角征伐に

尾張の織田伊勢・大和守を引き連れて上洛するというのも変ではないです。


次代の将軍・義材とは、山名家の血を介して西軍つながりでもあり、

管領・畠山政長が、新進の細川政元を抑えるために、

西軍よりの立ち位置になって斯波義寛を大事にしたのかもしれません。


1493年の「明応の政変」では、西軍だったのに立ち位置微妙な畠山義豊を、

細川政元が利用して、将軍・義材、管領・畠山政長、斯波義寛の河内出陣を利用しての

革命。これによって河内畠山氏は一気に細川家よりになり、東軍的立場。


将軍・義材は追放され、畠山政長は自害。斯波義寛はといえば、

越前・加賀表で過去世話になったのであろう赤松政則を頼り、細川政元に降伏。

恭順の意味として、足利義澄と斯波義寛の娘の婚姻関係は、ここで結ばれたのでは・・?(未確認。


1493年以降に京都表で信長との繋がりが考えられる織田敏信の活動が見られるとか。

その息子なりに織田良信がいて、信定、信秀、信長と繋がる系譜があるのでは?。


斯波義寛は表舞台からのき、弟達が政権を担っていたのでは。

1500年に東海道遠江表で、二人は戦死してしまうようです。敗戦により

弟2名の事績が明瞭とならなかったのでは?


それ以降、足利義澄の義理の兄弟である、斯波義達が登場し(母は一色義直の娘)、

反今川に邁進。1508年の大内義興の上洛による足利義材(義稙)の復活で、

斯波義達の遠江守護の喪失、今川氏親の逸早い足利義稙への服従。

斯波家と吉良家の過去の婚姻関係を重視した同盟政策らしき動向

(不明なのですが義達の嫁は吉良家の娘なのでは?。

1517年斯波義達の敗戦へとの流れなのかなと・・・。

そう思うのが一番すっきりします。

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津田信澄、三好信孝、惟住長秀

とりあえず、思いついたこと。

1582年「本能寺の変」後の大阪の争乱。

織田信長の三男・信孝が、「四国攻略」の御名代を拝命し、

翌日から、織田家重臣たちや町衆からの贈り物や支援によって、

いっきに大大名並みの財産を手にしたらしいです。


それは当然、四国攻めの軍資金になるということなのでしょうが、

それは果たしてどこに保管されていたのか。


また、石山本願寺が1580年に炎上してから、その跡地は放置されていたのではなく、

織田家の軍事拠点として、粛々と整備されていたのではないのでしょうか。


小牧山城、安土城、佐和山城と、数々の織田系城郭を造り上げてきた

惟住五郎左衛門尉が、1580年から何をやってきていたのか・・。


「変」後に安土城の金銀財宝を、惟任日向守が接収したとはいえ、

四国・中国攻めの軍資金は、大阪表にすでに移動済みだったのでは?。


若手武将、随一の「切れ者」、津田信澄は大阪城の千貫櫓に何が保管されていたのかを

知って真っ先に抑えていたのでは?。


「山崎合戦」後から、「清洲会議」までの間に、

信孝後見人的な役割を担当するはずの惟住五郎左衛門尉が、

何故、信孝と袂を分かつ事となったのか、


軍資金を巡り、何かドラマチックな展開があったのでは、

津田信澄さんの死因、惟住五郎左衛門の動向、

決して無駄な時間を、無意味に過ごしていた訳ではないと思います。

現在の一面的な評価、見落としがあるのでは・・。

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「本能寺の変」について思う事

とりあえず、今週思いついたこと書き留めます。

1582年「本能寺の変」前の「甲州征伐」にて、

先陣を切った信忠、副将・川尻秀隆軍団と、

織田主力軍の片割れ、信忠の後見人・瀧川一益が

武田家を滅ぼしてしまいますが、

遅れて信長様も出陣、そのお膝元を支えるために、

主力軍の片割れ・惟住(丹羽)長秀と、

一益の代わりに格上げされた、

惟任日向守(明智光秀)軍も織田家信長本隊を

形成するの主力部隊として従軍。織田軍の本軍は

長男・信忠だけの軍団じゃなく、まだ、これだけの威容があるというのを

武田家領民に知らしめる為の軍事パレード的な出陣だったと思われます。

そのまま、北条領か、上杉領への乱入も可能な状況だったかと思われますが、

信長様には朝倉攻めの前科があって、浅井長政のような後方での裏切りが

きっと警戒されて、北条を攻めれば上杉が後方から、

上杉を攻めれば後ろから北条が、もしくは最悪の場合、家康が?

という警戒心もあって、駿河・遠江・三河の統治状況、仕置きを確認して、

迅速な軍隊の移動ができるか、東海道の普請状況、街道も確認して、

帰還したのだと思われますが、その最中に何があったかというと、

関白・近衛前久との喧嘩。関係良好だった二人が何故、険悪になったか。

上杉家に一時世話になっていた前久が、上杉を武田のように滅ぼさないでと

嘆願しまくったんじゃないでしょうか・・。

それで、「近衛!われはさきに 帰れ!」と信長様の怒りを買ったのでは?


また、北条家はもともと伊勢長氏という室町幕府政所所司

・伊勢家とつながりのある家柄です。

惟任日向守の家臣には、伊勢家嫡流の伊勢貞興がいて、この人は

織田信忠攻めの主力をつとめ信忠を死に追いやっています。


二条御所攻めに手を貸した近衛前久、攻撃主力の伊勢貞興。

上杉・北条も、長宗我部家と斎藤利三のつながりなみに

怪しいのでは・・・と思いました。



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