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登美ノ勝也

Author:登美ノ勝也
武将について語りたくて「天下侍魂」というHPをつくりました。織田信長の家臣団とその六大軍団長たちの家臣団、戦国・室町・鎌倉の大名達とその家臣団について探求していきたいと思います。
リンク先のHP「天下侍魂」ぜひ御笑覧くださいw


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筑前守・日向守・備中守

三好家の家臣団を鑑みて、


1568年の織田信長の上洛、三好三人衆との抗争、

1570~1575年にかけての死闘。

1575年武田軍との「長篠の合戦」の勝利による畿内の安定。

織田政権としての家臣団の官位の任官。

羽柴秀吉の「筑前守」、

明智光秀の「日向守」、

原田直政の「備中守」、

先代三好政権を奪取したことによる、

三好家嫡流の代々が称する「筑前守」、

三好三人衆の盟主である三好長逸の「日向守」、

康長の家老である三好長房の「備中守」、

これらを織田政権が正当に引き継いだという

宣伝効果を狙っての官位任官だったのではないのでしょうか、

三好長逸は南山城から丹波方面にかけての軍事的司令官のようですし、

その版図は、明智光秀の支配するところと重複するのでは?


織田政権が、すでに九州を意識して、九州の守護職である官位名を

重臣たちが得たのだという解釈は、

後世歴史家の安直な思い込みなのでは?

1575年時点では、畿内の占領政策の安定こそ、

織田信長の目指したものだったのではないのでしょうか?

と妄想してみた。
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十河さんについて

1530年代の池内城の攻防に、

池内城の城主は寒川元政である

という文もみかけたことがあります。

十河氏と寒川氏の争奪の要所だったのでしょう。

一存さんが、武将として優れているという伝説があるということは、

その傷をおったことは事実でも、その合戦の年代が

ずれているということなのでしょうね。

織田信秀の「小豆坂の合戦」も何回あったのか定かではないといいますし、

小競り合いから、家の存亡をかけた合戦まで、大小様々な戦闘の中での

出来事だったのかなと考えています。


また、寒川氏に拠点を乗っ取られていた池内十河氏がいたとすれば、

池内城に対の拠点があったのかと思い池西城をそのまま記載してしまいましたが、

実際どうなんでしょう。議論が盛んになるといいなあと思いますが。


十河氏の十河城、池内城、あと存保が拠った城は十河城と別の城だったと思いますが、

尾張の織田信清の犬山城のような、中島、和田の両家老が籠城した、拠点に対しての2つの支城とか、

摂津の荒木村重の有岡城に対しての、支城の体制とかの様に、

十河氏にも支城支配体制があったのだろうなと思います。


もうすこし自分もその点を突き詰めていきたいと思います。

資料は何によったか、なのですが、部屋に本があふれすぎて、

長宗我部、三好氏関係の本をあさってみたのですが、そこに行き当たりません。

引用は元親あたりを特集した歴史物の雑誌からなのかなあ・・・と、今思っているところです。


「三好家」随分前に作成したページなので記憶がないです(申し訳ないです。


出所、心に留めておきます。余裕のあるとき振り返りたいです。


ご指摘ありがとうございました。また何か気付いた点あれば、是非ともご教授下さい。

ご無沙汰です

もうすぐ4月ですね。

困難の多かった一年がようよう終わり、

来期のスタートなのですが、来期もちょっとリアルが大変で

書く余裕があるか定かでありません。

とりあえず、生きてます。


越後の武将の鯰尾兜のイラストについてですが、

鎌倉時代の伝・木曾義仲の四天王の兜などをみていると、

越後の隣国、信濃ノ国の兜は鎌倉時代にしては、

斬新なスタイルだった記憶があります。

兜の所伝が怪しいのか、定かではありませんが、

あの地方の縄文時代からの独特の美的感覚からして、

「芸術は爆発だ」的な斬新な兜が、畿内ではなく地方で

生み出されていても変ではないのかなと思いました。

侍の「死に装束」でもあるわけですから、個人専用の工夫の凝らされた

一品の中から鯰尾が誕生してもよいのではないかと。

又、上杉謙信が当時相当の鎧兜甲冑マニアであるということも

伝わる兜の多さから言えるのではないかと。

家臣も下賜された当時最新の技術の当世具足の鎧や兜を、

持っていてもおかしくないとは思います。

上杉家臣団は、鎌倉時代の古風な鎧だけでなく最新の物、

武器や防具を買う

資金力はあったとおもいます。

というわけで、図屏風など確かな資料にはあたっていませんが、

「大阪夏の陣」とか秀吉統一以降の上杉家の屏風みても仕方ないですしねえ。

江戸時代作成の屏風をみても、作者のイメージが反映されていると思うので、

「兜」については、なんとも言えません。

当時、美濃で生み出された「日根野兜」も、日根野弘就が信長に従う前は、

本願寺勢力の為に生み出したものかもしれないですし、

上杉家にも何個か贈り物されているかもしれませんね。


まあそんなわけで、上杉家には、当時の最新のもの、

何があってもおかしくないとは思います。

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