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登美ノ勝也

Author:登美ノ勝也
武将について語りたくて「天下侍魂」というHPをつくりました。織田信長の家臣団とその六大軍団長たちの家臣団、戦国・室町・鎌倉の大名達とその家臣団について探求していきたいと思います。
リンク先のHP「天下侍魂」ぜひ御笑覧くださいw


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倭寇の領土だよ、全部

「応仁の乱」の頃が倭寇のピークっぽいですね。

世が乱れれば、

国を捨て新天地へ、

自由人が倭寇なんでしょう。


んで、鉄砲をもたらしてくれた王直とか、

彼も時には倭寇だったようですね。


琉球の尚氏も、南北朝の頃に成立ですし、

当時の中国政権からすれば、

支配外だったから倭なのでは?

ましてや今の3か国の政権が、

それぞれ我が領土というのも、どこに根拠があるのか。

時の政権に従っていないから「倭寇」であって、

自由人の集団だからこそ、誰の国家にも束縛されないのでは?



「倭寇」こそ、領土を主張しても、いいんじゃない?。



子孫さん、

「刮目せよ!」



で 現在、

子孫の人達が残っていれば、それぞれの占領政権から独立し

第4国目を作ってみてはどうでしょう(え。


軍事力的にムリか・・。


倭寇の足跡があるところは、

中立地帯にして、どこの国も領土を主張しなければいいんじゃない。



コンスタンチノーブルの大聖堂みたいに・・。

政治不介入の人類の聖域とはできないものでしょうかね・・。


「倭寇沿海州自治自由貿易区域」(超越的経済特区)


国ではなく、在地住民にメリットがあると思いますが・・。


来年は日本はどうなることでしょう。

さらば平成24年。


いつもたわごとに付き合っていただき、

ありがとうございます。

 皆様、よいお年をおむかえ下さい(祈。

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足利義澄と斯波義達

なんとなく、頭の中が整理ついてきたので、書き出します。

これまで足利義澄の将軍就任と、伊勢早瑞(北条早雲)の伊豆堀越討ち入りが

連動しているのに、その後の斯波家と、今川家の抗争に繋がる意味が

ずっと腑に落ちなかったのですが・・。

義澄は親の仇を、今川氏親・伊勢早瑞に託したわけですが、

斯波義寛の娘婿でもあります。

初期は、斯波家と今川家が、管領・細川政元の下に友好的だったのかなあ・・。


後見人の細川政元の死により、幕府体制が揺らぎ、

1508年の前将軍・足利義稙の上洛により、

後見人・大内義興と細川高国の体制。


斯波家は義澄に近い為に迫害を受けて、遠江の守護罷免。

今川氏の隆盛が1517年に完成し、斯波氏没落、

1518年の大内義興の京都撤収。


大内・多々良の山口氏や佐久間氏の尾張居住。


今川家の尾張支配、

清洲織田家の細川高国との婚姻関係、

伊勢北畠氏の細川高国との婚姻関係での、伊勢湾方面の安定ということでしょうか・・。


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平泉のミイラ

蝦夷の民を考えていて、気になったのが平泉のミイラ。

奥州藤原4代のものですが、

胃腸を除去せず、脳も除去せず?

よく腐らないで、遺せたものです。

「ヒバの80%の棺おけだから」

で、ミイラがつくれるものなんだろうか・・・。

蝦夷の民のなかで、何か特別なミイラをつくる手法が

あったのではないのでしょうか。


縄文時代から伝わっていたかもしれない、

その秘儀。

蝦夷の保存食作成や、やわらかい毛皮の製品加工技術、

「皮なめし」方法に繋がっていたりしないものでしょうか。




ミイラが調査されたのは、長谷部言人とかの時代、

かなり昔のことです。


現代的な方法で、再調査できないものでしょうか。


その皮膚から、なにか特殊な「物質(薬品)」が検出できないものでしょうか。


もう1回、ちゃんと調査してほしい・・。



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平泉と知多半島

知多半島を勢力圏とする長田忠致。

平安時代末期、「保元の乱」・「平治の乱」で活躍した

源ノ義朝と関連する武将です。

義朝の乳兄弟、鎌田正清は娘婿。

義朝や、足利義康の義理の兄弟で、

隣接する熱田大宮司家の藤原範忠とも関わりがあったことでしょう。


さて、知多といえば当時は常滑焼。

戦国時代は木綿の一大生産地として、

かなりの勢力をもっていたようす。


また、瀬戸というか、桜井松平や戸田氏の争った

尾張の北のほうは水銀の鉱山があるとか。


当時、平泉全盛の頃は、中山道・東海道の中継地であるこのあたり、

重要な物資が行きかっていたことでしょう。

尾張の豪族は、平ノ清盛よりも北の商売相手を見ていたのではないでしょうか。

関東で中継をしていた源ノ義朝勢力がいなくなれば、

関所でピンハネされることなく、平泉との交易ができると

長田氏は考えていたりしなかったでしょうか。

なぜ、義朝を裏切ることになったのか、

それには交易が重要なポイントを占めていると思います。

平ノ清盛に好かれなくても、長田氏的にはたいしたことではなく、

平氏のやってる海外との交易と、

平泉を結んで、さらに尾張・三河・美濃の国境地域が栄えることが、

長田氏としては重要だったんじゃないのかなあ。


それに同調した大庭氏ら関東諸豪の動向を見て、

「悪」として坂東で君臨した義平は、

飛騨に向かえといわれ、義朝自身が坂東の方の豪族の

説得に向かったのではないでしょうか。


東海道・坂東の諸豪は、すでに藤原秀衡と平ノ清盛の

両巨頭の態勢を見ていたのかもしれませんね。


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源ノ頼朝の海道大将は?

源ノ頼朝の統治形態も、崇神天皇の代の四道将軍にちなんで、

海道ごとの旗頭が存在したのでは・・。


ということで、思い当たるところで・・。



北陸道は間違いなく比企(藤原)ノ朝宗。

西海道(九州)は、天野(足立)遠景。

奥州道は幕府の重鎮、千葉(平)ノ常胤。

東海道は小野ノ(横山)成綱か。

中山道は源氏の双璧・平賀(源ノ)義信。

山陰道は佐々木(源ノまたは宇都宮)定綱か。



あとはコンビで

近畿は佐々木盛綱と大内(平賀)惟義か。

山陽道は西が土肥ノ実平か、東が梶原(平ノ)景時か。

南海道は宇都宮頼綱と、佐々木経高か。


コンビが基本なのか、

それとも片方が優位に立つ存在なのか。


単独であげたひとも、

コンビが居るような気もします。


ん~。

安達(足立)・比企ラインと、

佐々木・宇都宮・小山・八田・中条ラインに、

北条・三浦がどうからむか・・。

葛西・千葉は坂東平家で、近いようですし、

武田(石和)・安田は、一族が粛清されて小物感が・・、

隣接する佐久の平賀が優位なのかなあ。


考え中~

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頼朝の政権

義朝に従っていた、2大源氏、

近江八島氏と、信濃の平賀氏。

頼朝の代には八島氏は平家と縁を結んでいた兄弟が残り、平家方。

代わりに為朝の娘と縁を結んだ、佐々木秀義の一族が、

関東で宇都宮藤原氏と交わり、関東の有力者となり、頼朝が引立て

八島氏に代わって、近江源氏佐々木氏が誕生したのかも。


天下奪取後に、平賀・大内氏が畿内のリーダー的な山城守護となり、

平賀朝雅は将軍職を望むほどに・・。

佐々木氏は西国の有力御家人となり、「承久の乱」の朝廷の主戦力。

平賀・佐々木の両源氏、

頼朝の趣味で、ある意味ならびたったが、この構想も北条氏により

潰されたということで・・。



八島冠者と呼ばれた八島氏の本貫は、美濃八島とも言われているが、

近江浅井郡の八島ならば、佐々木氏が京極氏となって江北に君臨するのも

頼朝が先例故実を重視したとして筋が通る気もします。

やはり、近江の八島氏なのだろうと・・。 


ぼーっと考えてみた(眠)。


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