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登美ノ勝也

Author:登美ノ勝也
武将について語りたくて「天下侍魂」というHPをつくりました。織田信長の家臣団とその六大軍団長たちの家臣団、戦国・室町・鎌倉の大名達とその家臣団について探求していきたいと思います。
リンク先のHP「天下侍魂」ぜひ御笑覧くださいw


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織田(長野)信包

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今日の気分で、信忠さんの叔父(信長様の弟)、

織田信包(長野信包)さんのつもりです。

以下、「天下侍魂」から引用。

長野信包 (1543~1614)織田・平・(工藤)・三十郎・上野介・信良・長兼。
信秀四男または六男、信長の弟。長野(工藤)藤定の娘婿となる。
1569年北畠具教の息子、長野具藤を追い北伊勢の豪族長野家に養子に入る。
伊勢長野城主。のち1580年津田一安に代り伊勢上野から安濃津(津)城主へ。
1581年9月「伊賀平定戦」に加太口大将。副将に瀧川雄利。伊勢衆を従え乱入。
伊賀山田郡を拝領する。

<細野・雲林院氏など、旧家臣を次々放逐。
信澄も養父・磯野員昌を追っているので、
信包さんの器量がたりん(汗)・・・とかではなく、
養子乗っ取り政策の一環なのでしょう。>
<1558年北畠具藤が養子。1562年惣領。1569年追放。>

自分の中のイメージ的には、武田信玄の弟、武田信廉と
かぶってます。

戦場での当初の役割は信長様の
影武者だったりしないものなのでしょうかねえ~。

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山陰道方面軍・上野頼兼

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ちょっとワイルド系に決めてみました、

足利尊氏一門の猛将・上野頼兼のつもりです。

上野家は足利一門衆。八条院領上野荘の領主の家柄。

上野頼兼 (*~1351)上野・左馬助。足利一門。三河一色党。
上野頼遠(頼勝)の息。弟に氏勝。1336年3月筑後黒木城攻略に大将。
4月尊氏の西国落ちに石見を守備、周防に転戦。丹後・石見守護。
1343石見都野城攻囲。村井城攻囲。1348年石見三隅城攻囲。
1351年但馬守護。但馬にて戦死。息に上野直兼、詮兼。

<幕府創業期、山名時氏を従えて山陰地方を制圧していたかもしれない。
HP「天下侍魂」より引用。>

大将として軍団を率いたのは一代限りのようで、

子孫は将軍付きの側近。

渋川氏とよくにた感じで幕府の中枢で重きをなします。

というわけで、

政権の中央に残る事と、
地方の領主となること、
どっちが出世といえるのでしょうか。

幕府が強力なときは、守護よりも
力があったんじゃなかろうか
と妄想せずにはおられません。

というわけで、

山名家のおかげですっかり影の薄い上野頼兼および上野家を

室町幕府初期の功臣として推奨したいものであります。

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筆頭・川尻秀隆

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「天下侍魂」

織田信長の家臣団と軍団のページ、

容量が重くなってきたので、

再構成しようと色々やってます。

HP素人なので、苦戦してます(汗。

50~60KMBが適正らしいけど、

ページ全部100越えやもんな・・

容量を減らすには(悶々。

暑いから進まないのかのん(笑汗。

とゆうことで、気になってるのが川尻秀隆。

天下統一の貢献度的には、柴田勝家にもひけをとらないだろうに、

ここまできれいに事績を抹消される、

武将もそういないだろうなあ~という武将です。

「東照大神君」徳川家康の影響でしょう。

「本能寺の変」からの家康の動きが怪しすぎます。

穴山信君の死亡、川尻秀隆の滅亡。

武田家滅亡後の割り当てで、

駿河で満足できず

(ほとんど家康与力の領地で、家康自身の恩賞は僅かなのかな?)、

本当は甲斐も欲しかったのかもしれません。

で、光秀をそそのかして謀反に走らせたとか(妄想~。

家康の対応の早さに疑いは増すばかりです。

秀隆の謀殺は、先祖の清康や広忠の暗殺された方法とにてるのかな。

北条氏のおもいきりのいい織田家への反逆も、

家康があおってたりしないのでしょうか・・・。

昔の三河松平家が幕府政所の

伊勢氏が主筋であったならば、

北条と徳川の関係は、義昭と光秀の関係にも似てるような・・。

というわけで(謎。

家康と秀隆のばかしあい、タヌキとキツネかなっと繋げて、

兜はキツネ頭にしてみました。

紋章はキツネ火っぽく(妄想ですから。

松平信一が1568年の上洛戦で活躍し、信長様からもらったという、

鹿革をなめした羽織が、今の革ジャンというか、

劣化する前はもっと光沢のあるカッコイイもんだったんだろうかと

ふと考えて、黒幌(黒母衣)筆頭の川尻さんなら、

軍功をあげて貰う機会はもっと多かったかなとおもい、

きてるようなイメージで描いてみました(笑。



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1578年織田領と各軍団

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戦国時代の歴史の本を読んでいて腑に落ちないこと。

で書いてみます。

1582年という結果論で、

織田家の方面軍と

各軍団長に対しての歴史学者の人物評価に、

この評価は本当のことをゆってるんだろうか

勝者の歴史の中でつくられた、かたよったイメージで

織田家を見ているんじゃないのだろうか?と

素人ながら考え込んでしまいます。



結果論じゃなくて、1576年原田直政が戦死してから、

1578年羽柴秀吉が播磨に取り残されたりして、

1582年までの経緯で、

どうなんだろうか?と。


1578年頃は

北近畿は2分割され、北西近畿を惟任軍団、北東近畿を惟住軍団。

(地域的まとまりで、柴田に対する佐々・前田のように

 秀吉は長秀の与力であったんだろうという前提です。)

南近畿も2分割され、南西近畿を佐久間軍団、

南東近畿を、瀧川後見で織田一門が担当していたんじゃないでしょうか。

1582年の方面軍軍団長に対して、彼らが出世頭と

評価の高い歴史書が多いのですが

前線が常に重要で、占領地は重要ではないのでしょうか。

治安維持の兵力は

必要ないものなのでしょうか?

瀧川・惟住軍団は織田信長直轄領近くに配置され、

織田軍の中核軍として畿内を席捲していたはずです。

それに、

西近畿の荒木・別所・本願寺の総指揮は、

織田信忠が「御名代」として統括していたはずです。


方面軍軍団長と称されるのは、

前線にへばりつくように配置された一司令官でしかないと思います。

1582年たまたま中国方面に毛利との決戦があるということで、

信長直属の軍団から、秀吉の「与力」として多くの武将が派遣され、

中国方面軍に一番の軍事力が集中していたのではないでしょうか。

堀秀政が秀吉軍のそばにいるというのが、

その証となるのではないでしょうか。


若狭方面も話しが伝わらないだけで、守護武田家の抑えや

丹後に対しての圧力やら、なにかしらいろいろあったはず。

<惟住長秀が四国方面に最後派遣されるように配置されるのは、

病気で死期を悟っていた長秀さんが、

最後に「死に華」を、とおもって志願していたり(これは妄想です。>




飛騨方面に関しても、金森さんの柴田軍団での

動きが不明なので(加賀戦で拝郷や佐久間盛政の名前はでるのに)、

血縁の遠藤や佐藤を与力に信忠軍団と協力して、

ひとまとめに飛騨に圧力をかけてたりしないのでしょうか?。

甲州乱入の飛騨口の責任者は金森さんですし。


「金ヶ崎の退き口」のような、松永久秀や池田勝正が頑張ってるのに、

秀吉が撤退戦を成功させたような、武功の独り占め状態が、

天下人秀吉のために起きて、畿内で活躍した瀧川、惟住や、

他地域の武将の活躍がなくなったんじゃ

ないのでしょうか。



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南北朝)宇都宮公綱

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今日の気分で、

南北朝期の宇都宮公綱さんのつもりです。

宇都宮公綱 (1302~1356)治部大輔。宇都宮第9世。

宇都宮貞綱の息。母は北条長時の娘。
1333年「元弘の乱」に楠木正成討伐に上洛。
のち後醍醐天皇に応じ反鎌倉幕府。
1335年関東足利尊氏追討軍に従軍。
1335年足利尊氏軍に敗北し降服。
尊氏が九州に落ちた際に後醍醐天皇方に帰参。
関東に戻り、北畠顕家に従い各地を転戦する。55歳。
息に宇都宮氏綱。


この方も大変な時代に生まれた人物です。

先祖は源ノ頼義、義家に協力した藤原宗円という

下野国一の宮の神官だったかと思います。

時代が降って、

本家と分家の対立やら、

家臣団・紀清党の分裂やら。


この方にとって政権交代は、

望んでいたことだったのか・・。

どのような思いで時勢をみていたのかなと思う

今日この頃。


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