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登美ノ勝也

Author:登美ノ勝也
武将について語りたくて「天下侍魂」というHPをつくりました。織田信長の家臣団とその六大軍団長たちの家臣団、戦国・室町・鎌倉の大名達とその家臣団について探求していきたいと思います。
リンク先のHP「天下侍魂」ぜひ御笑覧くださいw


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今川義元

odanobu971.jpg

ひさびさに落書き。

海道一の太守なので、太守っぽい顔で

頑張ってみましたが、他のところが

なんとなくでこんな鎧に仕上がりました。

手抜きw。

当世具足は着ないかなあ~。

名門らしく古めかしい鎧のほうが

いいのかなあ。

義元さんのイメージは、国主らしく

手堅く、手堅く、堅実な印象があるのですが、

雪斎なきあと、その役割を自分が果たし、

氏真を当主に据えて征服戦をはじめたのが、

誤りのような気がします。

朝比奈や、岡部、松平でも旗頭に据えて、

織田を攻めたほうがよかったのかもなあ~。

やはりおごりがあったのかな。

「本能寺の変」へむけて、

上洛する織田親子も、

義元さんの油断と状況が似てるような気がします。

長宗我部と、近衛は、

土佐一条家の縁でつながりもってたりするのかなあ・・。

近衛、明智ラインもなんかあるんでしょうねえ。



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家康 旗揚げ

odakiratoku001.jpg

家康の戦国大名への出発について考えてみました。

濃い緑の拠点マークが岡崎城、1560年以降の家康の本拠地です。

織田信広の拠点だった安祥城はどちらのものだったことでしょう。

1561年佐久間軍団が西三河の伊保、挙母、寺部を押さえています。

吉良氏は今川に謀反したことにより東条に込めおかれていたようです。

西尾(吉良)吉次は織田家にお世話になり西尾城に復帰させてもらった模様。

1582年信長の武田攻めの帰り、西尾・小栗・浅井などが街道を整備して

褒められています。

荒川義広が親今川派としてずーっと頑張ってきて1563年水色の範囲で

三河一向一揆の争乱が有ります。

ついでに家康の父・広忠を匿ってあげた

吉良家老・富永氏も家康によって滅ぼされます。

オレンジ色部分が野田大宮司・富永菅沼氏が関連する荘園領。

徳川*神将と崇められる武将で何故この武将の名があがるの?

というぱっとしない武将も、

将軍家が秘密にしたい歴史で詳しく語ることはできないけど、

夏目、蜂屋、渡辺などの諸氏が味方になった貢献度が大で、

名前が残っているのでしょうか。

のちのちの石川軍団の松平氏は矢作川周辺に分布し、

織田家の国境はこのへんなのかな?と推測されるものが有ります。

酒井軍団の分布は、松平家の領土拡張のありかたに、

いつの時点でここにいついたのだろう?

と疑問がわいてくるものです。

そのほかにも上野城、酒井忠尚の家臣、大須賀康高、本多正信

今川家の侍大将・松井忠次、

語られない経歴が、とてもとても気になります。


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桶狭間「私的解釈」

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「桶狭間の合戦」について私的におもうことは、

「奇襲攻撃」といえば奇襲攻撃。

「正面勝負」といえば正面なのだろうなという思いです。


信長様は、義元が大兵力を擁している心理をたくみに利用して、

尾張国境のあらゆる方面から、

今川軍が同時に乱入させるように仕向けて、兵力を分散させ、

一点集中で大軍が向ってこないように、

前段階であらゆる手段を尽くしているように思えます。

前哨戦で三河の海岸を奇襲するのも、

義元本隊がこちらがわから攻めてくるようにと

義元本軍のルートを、信長様の思うように

誘導していたんじゃないのでしょうか。


また、多くの砦を築くことで、

今川本軍が、人数を更に割く状況を

導き出したのではないのでしょうか。


こうして分散した今川緒部隊に発見されないで、

懐に潜入し、義元旗元のみの本軍に正面攻撃を仕掛ける

というのは奇襲以外のなにものでもないと思いますが如何?

義元さんは心理戦で術中にはまっていたのでは?

信長様は まさに野戦の神様だなあ~。

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長篠の合戦「私的解釈」

nagasino03odanobunaga.jpg

長篠の合戦について、自分なりにおもうこと(たわごとですがw)。


信長、極楽寺山に到着、本陣設営。

茶臼山陣設営(測量で陣屋跡あり)。羽柴隊守備範囲。

石座神社付近陣屋(測量で陣地跡あり)。丹羽・(佐久間?)・瀧川守備。

弾正山(高松山)に移動し全軍の指揮(虎口の岬先端の前線で)。

嫡男、信忠は新御堂山に陣地(志多羅の郷を見下ろす)。

岡崎(徳川)信康は松尾山に陣地(志多羅の郷を見下ろす)。


一段低い里にて3万の大軍を隠し、

兵数は少ないとみせて武田軍をつり出す必要があったとのこと。


人に噛み付いてくる、人を蹴り飛ばす木曾馬を、

いかに倒すかに、信長様の頭は集中していたと思います。


的を大きくするには正面からくる馬を撃つより、

いかに側面をむけさせるか。

横向きに長距離を走らせるほど、鉄砲を撃ち込めます。


武田軍は要塞化した丘陵地帯に正面攻撃をかけるより、

南の平地、徳川陣地付近から

の侵入をはかり(山県隊が突撃、内藤隊も徳川の本多陣を襲ったといいます)。

山県昌景は南側の徳川陣地をきりぬけ、

一段ひくい志多羅ノ郷に入り込んだときに、

織田3万の軍勢を見て、愕然となったんじゃないでしょうか。

まさに丘陵の陣屋が、虎口地形の役割を果たし、

迂回して侵入したところで、

何万という足軽に、一部隊ずつねり倒されたんじゃないでしょうか。

なので、虎口効果で隠されていたため、

自軍が敗北している状況を、本陣にいる勝頼は確認できず、

どんどん後続部隊が突撃して泥沼の敗戦に・・・。


『公記』の寅卯(東北東)方向での激戦というのは、

丸山の真田に対する激戦ではなく、

志多羅に誘い込まれた武田軍が、

極楽寺本陣までの到達は無理と判断して、

まず虎口を占拠すべしと

丘陵裏手の弾正山陣に攻めかかったのでは?


正面攻撃はあまりに無策すぎなので、

実はこうじゃないかと、推測してみました(妄想です)。



視覚的な長篠合戦屏風があたまにあるので、

現代人は真っ向勝負ばかり考えてしまいますけど、

こんな駆け引きは ないんでしょうか。


ついでに言わせて貰えば、

鉄砲千丁しかもってきてないという考えは・・、

根来衆だけでも3000丁は軽くそろえられるのですから。

音に馬がおどろくというのも・・。

武田軍も鉄砲1200丁保有といいます。

慣れてるはず。


あと信長様の先陣は国衆とありますから、

敵がどういうルートで侵入してくるか、

ちゃんと想定して配置しているというわけですから、

(馬を活用するために山岳方面じゃなくて、

平地でおしてくるだろうという)

信長様の熟考された罠が ちゃんと設定される

陣取りだったのでしょう(妄想)。


信長様は弾正山(高松山)虎口の岬先端の前線で戦場を見渡し、

武田軍が罠に向って

次々とながれていく様子をみて爽快だったかもしれませんね。


岡崎信康に軍功があって増長したというのも、

こういう流れでの戦闘となったら、まさに

激戦地にいたので、ありえることかもしれません。


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海道一の弓取り

owarioda02.jpg

ホームページ用に、戦国時代の

織田家、松平徳川家周辺のことを整理してみました。

西三河は父・信秀の頃からの微妙な地域です。

桶狭間以降は、元康(家康)も、織田家を意識しないと

生き残れないような厳しい状況だったんじゃないでしょうか。

同盟と大袈裟に言われますが、

尾張ほぼ一国を手中に収めようとしている信長と、

岡崎周辺を切り取ることで汲々としている松平家とでは、

天と地のひらき、

ほぼ家臣扱いなんじゃないのでしょうか?

というか最初から臣従してるんじゃ・・・。

「天下人」となったことから、

こうだったんじゃないかとの過大評価が

意識に根付き、大間違いが通説として定着しているような

気がします。

織田家・松平徳川家の領地を表示する際の

今までの歴史の教科書全部、

まちがってる様な気がする・・・。

東海道とか街道を整備する事業も、

家康は信長のやってたことを引き継いだだけ

なんじゃないでしょうか。

イメージでこうだったはずだというのが、

先行するというか、いろんな事で物事を

みるというか、客観的に歴史をみるというのは

難しいものなのだなあ~と思う今日この頃です。

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