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登美ノ勝也

Author:登美ノ勝也
武将について語りたくて「天下侍魂」というHPをつくりました。織田信長の家臣団とその六大軍団長たちの家臣団、戦国・室町・鎌倉の大名達とその家臣団について探求していきたいと思います。
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金森長近

kanamori931.jpg

今日の気分で
斎藤道三の娘婿、金森長近さん(のつもり)です。

しかも織田信長さんとは相婿の関係で、

親衛隊「赤幌衆」のひとりです。


飛騨方面軍遊撃軍団長!! と呼んだら駄目ですか?(笑。



1575年「長篠の合戦」に、激戦の搦め手軍にて軍功。

越前侵攻には、原長頼とともに

美濃の濃州口群上表から越前大野郡に乱入する搦め手軍。

大野郡を二人は与えられ、北陸方面軍の柴田配下の将とされますが、

実際のとこ どうなんでしょう? 

軍団長級の武将として立派に活躍してるような・・・

しかも柴田配下として、専門的に活動してるんでしょうかという根本的な疑問。


摂津出陣の際には柴田軍とは別に織田信忠さんの指揮に従ってますし。

甲州乱入の際には飛騨口の責任者として、

織田信忠さんの搦め手軍を指揮しています。

飛騨の三木、姉小路、内ヶ島氏が滅亡し、

金森長近の子供達は相次いで死亡し、養子の可重が継承したので、

事績があやふやな関係で、評価がぱっとしない武将に

なってるような気がします。


郡上の遠藤氏や、飛騨国衆との係り、目立たない地域とはいえ、

飛騨方面の調略に長近さんは心を砕いていたんじゃないのでしょうか。


信長様に早くから従っていた美濃衆の

蜂屋頼隆と金森長近の両雄。

「本能寺の変」後に追い落とされて、不当に評価が低いと思います。


太田牛一さんが書き忘れてるってこと

ないのかなあ・・。


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武田の若大将

takedano02.jpg

武田信玄の軍団と家臣団のページを分割して、

信濃先方衆、

真田幸隆(幸綱)、信綱、昌幸の家臣団、

小笠原家、村上家、諏訪家の家臣団のページということで

「天下侍魂」の中で新しいページをつくってみました。

まだ細かいところは完成してませんが、のちのち
ぼちぼちと。

信濃は江戸時代に
一番多く
一揆のおきた国といわれてますが、

基本的に統治の難しいとこなんでしょう。


義朝に対抗した源ノ義賢。

南北朝の時代に信濃に勢力を持つ宗良親王と、
その配下の遠江の井伊一門。

いろんな経緯がって、
一筋縄でいかない国衆が割拠し、

武田信玄も方面軍というか
地域地域で
細かく分割統治してたんじゃないかと思います。

占領後に信長・信忠様親子が信濃を分割し
諸将に分け与えたのも、
信玄の信濃支配の方法の踏襲だったのかなあ~(妄想。

「諏訪勝頼」っていうのも

武田を相続できなかったという理由でもなく、

信濃を支配するには
この名字の方が便利だったから!

という合理的理由だったりしないでしょうか(妄想。


信忠軍団は1580年頃石山本願寺の移転ということで
畿内の安定をみて、

活動が東へシフトして、高天神の後詰や
武田攻略の為のいろんなことをしていて、

畿内で信忠さんがおこなってきたように、

(佐久間、瀧川、惟住(丹羽)、惟任(明智)、
 筒井、羽柴、長岡を率いたように)

徳川家康や酒井忠次、石川数正も
その命令に従うことになってたとか
ないのでしょうか(妄想。

武田の拠点「高天神城落城」も、

金ヶ崎の退き口みたく、
家康が武功をひとりじめ
してたりしないでしょうか

というか、本人は係り知らないところで、

後世の操作でそうなってしまったり・・(妄想。

妄想連発ですw。

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信忠の領国

odaryou003.jpg
前回は手描きの字で武将名を書いてUPしたのですが、
字が「へたや へたや」と子供からバカにされるので、
打ち込みましたw。

脱力系の字のほうが親近感わくかなあと
思ってんけど~ といいわけw

摂津衆や河内衆って、信忠さんを大将として仰いで
松永久秀親子攻めや、荒木村重攻め、
別所長治攻めに従っている経験があるので、

信忠さんの影響力は想像以上に、
とてつもなく広範におよんでいたかもしれませんね。

木曽義昌の西信濃支配は、警察権というか
軍事的旗頭としての支配であって
検地して土地をすべて与えられる領国支配とは
違うのかなあと思います。

深志(松本)の城代は織田家からの「与力」
本当は小笠原貞慶がちゃんと復帰して
いたんじゃないでしょうか。

以前から信長様の指示で
武田方の調略に働いていたといいますし、

上杉方の信濃進出で話しがややこしくなって
徳川の世になって、家康の保護を受けていたとかいう
徳川家康のおかげでお家再興できた美談へと
かわってしまったんじゃないでしょうか。

あと金森さんはほんとに北陸方面軍なのでしょうか?
長篠の合戦では搦め手軍の大将ですし、
もっと地位が高かったんじゃないでしょうか?

金森さんの子弟は皆、織田信忠さんの側近なのは
どうしてでしょう。

何故か柴田配下という先入観が働いていないでしょうか。

1582年の金森長近の飛騨口からの武田領乱入。
彼の遊撃軍団が存在してるんじゃないでしょうか。

美濃の飛騨よりにいる豪族の
佐藤・遠藤などの血族的な軍団構成も気になるところです。

あと奥平、大須賀は信長様後詰の要請ができるほどに
前線の武将として
織田家に近い武将なんじゃないでしょうか。

久能・松井・三宅・牧野は対北条のために、
大須賀・奥平のような期待を込めて
配置されたんじゃないでしょうか。

(織田)中根信照に対しては
元遠江守護・斯波家の旧家臣の残党がいて
吉良旧臣とともに織田家と直接の主従関係が
あったんじゃないのかな?と思います(妄想ですが。

毛利秀頼の信濃の配置も、
斯波家が信濃守護の時期が以前あったから、
それを意識しての配置だったんじゃないでしょうか。

「天下人」の贔屓目でみられている
現在の歴史評価の徳川家康ですが、

織田家の天下だったら、徳川家康は、
水野信元並みの
ただの一武将でしかないと割り切った目で
みるべきだと思います。


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織田信忠

odano928.jpg

今日のお題は、
セフィ○スじゃなくて(笑、

ガクト謙信公ってわけでもなく、

信長様の嫡男、
三位中将・織田信忠卿のつもりでかきました。

南蛮胴具足仕様です。

信長様はマントを着てる御姿の場合が多いので、
信忠さんは陣羽織にしてみました。

やっぱ信忠さんの好きな色は紫かなっと思います。
紫は王家の高貴な色といわれいますし。

髪の毛は、信長様はいつも逆立ってるような
印象があるので、ストレートにまとまってる風にしました。


父上の野生的さに対して
信忠さんは文化的な貴公子風なんかなあ~とか、

信長様と真逆のようで
かつ似てるというようなイメージです。
odanobutada01.jpg


というわけで、このような画にたどりつきました。

もうちょっと背景とかがんばってみよかなあ~。

もっとカッコよく描けるようになりたい、
そんで
織田信忠ファンが増えてほしいですw。


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一豊祖・山内首藤資清

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坂本龍馬つながりで、土佐藩の山内家、
織田信長に仕えた初代・山内一豊。

その祖といわれる山内首藤・藤原資清の
つもりで描いてみました。

平安時代の甲冑って首が無防備な感じするので、
仮面ライダーみたく
マフラーつけてみました(エ。

河内源氏の源ノ頼義に従って前九年に従軍。

その息子は13歳で源ノ義家(八幡太郎)の後三年に従い、

その嫡男・源ノ義親の九州での反乱に、
義家から説得工作を託されますが、
義親とともに反乱するという・・・。

早期の武士の中心近くにいる
有名な家系なのですが、
実際に山内一豊とつながるかどうかは判りません。

信長様の家臣団ってほとんど、
先祖の経歴詐称でしょうね。

いいところにルーツみつけるのが
一般的なくらいに、
昔の武士団や武将の英雄譚が、
戦国の世にしられてたんだなあ~というのが
驚きですけど。

戦乱の中でも、
「軍記物」を武士の息子は
勉強させられてたのでしょうか。

嫡男・信忠があたえられた越後平家の
「秋田城介」やら、

信忠側近の梶原忠正が名乗った
三浦義村の「男平六」をもじったような「団平八」。

九州・緒方の家督伝説のパクリような
伊勢・関家の家督伝説。

信忠さんが重用した尾張・山田家(尾張源氏)や、
鎌田一族(山内首藤の流れ)。

すっごく源平マニア感が伝わってきます(笑。

織田家中の人ってけっこう
歴史の勉強が 好きやったんやなあと思います。

そおゆうのに詳しい老臣が(林秀貞とか?)
尾張に居る若者達を教育する役割で
きっといたんでしょうねえ~(妄想パターンでw。

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蜂屋頼隆

odano924.jpg

今日はテレビで蜂使いのおじさんが
でてたことにちなんで(笑。

気分で 織田信長様家臣にて和泉半国守護の

蜂屋頼隆さんです(のつもりです)。

信長様の親衛隊、幌衆の出身。

1569年頃の近江の征服後の城もち、
森・坂井・佐久間・柴田・中川・丹羽の体制が、

朝倉・浅井同盟軍の反撃で、崩壊した後に、

明智・佐久間・柴田・中川・丹羽・羽柴とともに
中川追放後の蜂屋殿のくわわった新体制というわけで、

遊撃軍団旗頭への糸口が用意される様です。

その後は、

「軍団長にはなっていない」
「出世からはずれた」といわれる、

丹羽長秀さんと江北方面から各地を転戦。

石山本願寺包囲軍から、1580年本願寺幹部の石山退去後に
和泉方面担当へとなってくわけですが。

『信長公記』を読んでて思うのは、蜂屋・羽柴・武藤は、
丹羽長秀の軍事行動に付き添う場合が多いということ。

丹羽長秀が北近江と若狭方面への
「方面軍団長」としての地位にあり、

与力に羽柴・蜂屋
(幌衆の佐々・前田が柴田につけられたように)。
外様の与力に磯野・阿閉・新庄等の江北衆と、
武藤達若狭衆がいたんじゃないでしょうか?

蜂屋さんが本能寺の変後に、
早く亡くなってしまった事と、

秀吉が「天下人」となってしまったことから、

歴史が、事績が、
あやふやになっていってしまったかもしれませんね。

「金ヶ崎の退き口」にも、
徳川・明智・池田・松永が参戦していたのに、
秀吉ひとりに脚光があたってしまうこと。

天下人の「武功のひとりじめ」が、
『信長公記』にも及んでいるような気がします。

太田牛一さんが書きたくてもかけなかった事とか、

じっくり読みとらないとなあ。

新年の初カキコは、

研究されつくした
とまで書かれる
信長様の「定説」といわれてるものへの疑問でスタートです。

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