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登美ノ勝也

Author:登美ノ勝也
武将について語りたくて「天下侍魂」というHPをつくりました。織田信長の家臣団とその六大軍団長たちの家臣団、戦国・室町・鎌倉の大名達とその家臣団について探求していきたいと思います。
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阿閉貞大

今日の気分で阿閉貞大のつもりです。
(当時流行のミミズク耳の変わり兜にしてみました。)


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近江・湖北の虎、浅井長政の親戚にして
浅井家家老職の若手。

親父の阿閉貞征さんとともに浅井家の重鎮です。

阿閉貞征は浅井時代にその軍功によって
伊香郡を与えられ支配していたとか。

1573年の朝倉義景の北近江撤退も、
阿閉氏の離反が引き金
といってもよいかと思われます。

浅井家の滅亡後は、
秀吉が湖北三郡の一職支配を任されたというのは
鵜呑みにしてもいいのでしょうか?

それにしては明らかに対立関係。
織田家中での裁判沙汰にもなっています。

1577年に秀吉が中国地方に転属されると、
信長直属の安土衆として、貞大の活躍が始まります。

相撲大会では馬廻り随一の大力の持ち主として
全員に周知されるほどの体格の良さだったらしいです。

鎌倉時代なら畠山重忠クラス
の武将だったんじゃないでしょうか。

1582年の「本能寺の変」に明智光秀に与力し、
「山崎の合戦」に従軍。捕縛され一族は処刑される運命が
待っています。

秀吉と仲が悪かったからしかたないでしょう。

伊香郡の阿閉、高島郡の磯野、
湖北の旧勢力・今井氏、堀氏とか浅井家重臣
の人達のこと、

「天下人」になってしまった秀吉によって、
北近江のいろんな事の歴史は不都合のないように
ねじまげられてないでしょうか。

気になるところです。


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織田信長の家臣団と軍団


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上杉景勝

odano914.jpg

今日の気分で上杉謙信公の
養子・上杉景勝(のつもり)です。

1555年生まれ!!ということは信長様の嫡男の
織田信忠(1555年誕生説で)さんとは同学年。

謙信公の死後に実力で家督を勝ち取ります。

すんなり家督とならなかったのは、
上田長尾の家臣団が強固な結束をもっていたことが、
越後の国人達に敬遠される理由だったのでしょう。

越後の国人達は、
自分達の未来に出世があるかどうかで
きっと動いてたはずだし。

上田衆が大きな顔をするくらいなら、
単身越後にやってきた景虎さんを担いだ方が得策
とおもったかもしれません。

謙信公とりたての側近団は、
越後譜代ではないのでいち早く景勝に味方しますが、

結局は越中方面の前線にとばされ忠誠心を
ためされている様子です。

謙信公がもちょっと、
将来的ビジョンを家臣に伝えていたなら
こんなことにはならなかったかもですね。

織田家の場合は家督争いのないように
信長様は先を読んで、長男の
信忠さんがずっと特別な扱いをうけてきてますが、

それゆえに京都で死んでしまったあとは
家督争い勃発で・・・。

どちらも一長一短ですねえ。

景勝さんは眉間の深い縦じわが無くなる事がなかったとか、
終始無言とかいわれてますが、
苦労の連続だったのだろうなと思います。

1582年は、
西からは柴田・佐々・前田・拝郷・佐久間盛政といった
織田北国軍団のプレッシャーと、

南からは瀧川・津田秀政、離反した北条等のプレッシャー。

東では内憂の新発田一族。

織田の嫡男・信忠の軍団長、森長可率いる信濃軍の進撃。

もう滅亡は目の前!!!

のピンチからの窮地を脱出。
というような綱渡り人生で、

移り変わる時代に翻弄されつつも、
ほんとに運の良い人だよなあ~
とも思います(ある意味スゴイ。

その後の人生も、
天下人に妥協しない反骨魂というか、
内に熱いものを秘めてるというか、
プライドの高さだけは誰にも負けなそうですね。
「名を惜しむ(誇り)」を守り通した人生かもしれません。

武士道というか、謙信道というか、
宗教的なくらい謙信公を崇拝しているひとなのかなあ~。

信忠さんは「親父殿」をどう見ていたんでしょうねえ~。

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織田信長の家臣団と軍団

あわせて上杉謙信・景勝の家臣団と軍団のページを

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市橋長勝

odano907.jpg

今日の気分で市橋長勝さんのつもりです。
美濃の豪族・市橋長利さんの長男です。

祖父の市橋伝左衛門・利尚殿は
いち早く織田信長に従い、
(領地が尾張に隣接してるからでしょうか)
信長様の美濃攻略の良き相談相手となっていた様子。

長勝さんは1557年生まれなので、信忠さんの弟の
織田(北畠)信雄や織田(三好)信孝とは 同学年。

父・長利さんは1513年生まれとなってますが
実際は信長様と同じ年齢くらいではないでしょうか。

伝左衛門さんの事績と、長利さんが付属させられた、
織田信忠さんのご家老としてのイメージが強く
老齢のイメージが先行してるんじゃないでしょうか。

長勝さんは父からはなれ、
信長様の旗元(旗本)馬廻衆に抜擢されます。

「本能寺の変」には巻き込まれなかった様子。

他の美濃衆や長勝さんはどうなんでしょう?

馬廻りの稲葉家の人々、竹中重矩さんは当時美濃にいた
様子なので西国遠征の兵を美濃にて
召集している途中だったのかなあ。

京都にて信長親子は、毛利討伐の軍勢が
各国から揃うのを待ってたんでしょうね。

「本能寺の変」がなければ
信長様直属の若手の馬廻りも、そのうち
織田信忠さんを支える大名となっていったでしょうね。

1600年に同じ信長様の馬廻りをつとめていた同僚の
丸毛兼利さんを攻める運命。

最終的に4万石程の領地を手に入れますが、

秀吉、家康の織田武将冷遇のせいでしょうか。

信忠さんの時代がきてたら、
きっともっと上へ いけてたはず!

時代に翻弄された人だよなあ・・(涙。

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長岡忠興

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1563年生まれ。
1577年に15歳にして、松永久秀方の
片岡城攻略に武名の高名比類なき戦いっぷりをした
長岡忠興さんのつもりで描きました。

織田信忠さんが畿内の軍団の指揮をとっていたので、
働きっぷりに感激して「忠」の字を与えています。

信忠さん1555年生まれと仮定すれば、指揮官は21歳くらい。

織田家の若い芽、あらゆるところで
新しい時代の息吹を感じるというか
成長の活力がある時期でしょうね。

忠興さんは、親父殿が
細川藤孝という当代一流の文化人ですから、
ただでさえ印象うすいのに、
奥さんが光秀の娘のガラシャさんだったため、
更に印象薄くなっちゃってますけど、

兄弟そろって、信長様に認められた武辺者ですから、
織田政権がつづいていたのなら、
加藤や福島より、本来は格上だったろうに・・と
思う人物です。

いつの世も時代に翻弄されるんだよなあ~。

これからも
蒲生氏郷や、青地元珍、京極高次たち
織田家の若手大将格を応援していきたいですねえ。

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簗田広正について

HP「天下侍魂」を すこし更新。

こないだ平ノ忠盛のイラストを
描いてから HPの方が
きになったので、

平安時代から、やり直していってます。

平ノ清盛に従っていた九州の豪族ということで、
緒方氏などの事績を調べていくと、

先祖は大神氏。

大神は=大三輪などの山岳信仰にも通じるようです。

九州に土着した大神氏は臼杵や戸次などの氏族をうみだすようで、
戸次=鎌倉時代に入植した大友の一門と
おもってたのですが、違うみたい。

そこでピンときたのが、

白山信仰の神主・簗田と、三輪山の大神と、九州豊後の戸次。

簗田広正に与えられた、別喜(戸次)の姓と、
加賀二郡の支配と、
何か関連はみいだせないものかなあ・・・(妄想~)。

というわけで、しばらくHPの方に
潜りそうな感じです。

それにしても、きっとなにか意味があるんだろうと
おもってしまう
信長様のなぞなぞは、難しいものばかりですね。

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平忠盛(平ノ忠盛)

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今日の気分で、平家創業期の平ノ忠盛さん!!(のつもり)

武家の棟梁・源ノ義家の息子、
南海の海賊王・源ノ義親さんの叛乱を
朝廷の命で押さえ込んだ平ノ正盛さんの息子さんです。

経歴は、
平ノ忠盛:(1096~1153)検非違使・左衛門大尉・伯耆守・備前守・伊勢守・播磨守・美作守・越前守・正四位刑部卿。平ノ清盛の父。平ノ正盛の息。弟に平ノ忠正。1113年、興福寺の僧兵から京都を守る。1129~山陽・南海道の海賊を追討。白河法皇の信頼を得て平氏繁栄の基礎を作る。1135年、西海の海賊の追討使となる。藤原頼長が評して「数国の吏を経て、富巨万を重ね」、奴僕国に満ち、武威人にすぐ」『台記』と記している。肥前国神崎荘を拠点に中国貿易。58歳。兄弟に盛康、盛長、忠正。

HP「天下侍魂」より引用。

戦国時代末、織田政権の目指していたもの。
それは信長さんの嫡男・織田信忠さんが改名した頃から
理想というものが見えてきてたんじゃないでしょうか?

(以下、妄想ですw)

もともと織田信重という名前を名乗っていたのは、
平ノ清盛さんの嫡男が重盛という名前だったからでは
なかろうかと、推測。

信忠と改めるのは、
織田が平家の末流ということで、源平交代思想にのっかり
世に織田政権を具現するにあたって、
志半ばで散った平ノ重盛さんにあやかる名前はどうかと、
どこかで一抹不安を感じたのではないでしょうか。

で、南海道を制して中国との貿易で巨万の富を得た、
平ノ忠盛こそが、
信忠さんの意識にピッタリときたのでは
ないでしょうか。

毛利を征伐したのちの織田政権下で、
瀬戸内海は南蛮貿易などにより再び活況を呈し、
厳島神社の社殿はもっと巨大なものに
変わってたかもしれませんね~(笑。

そういえば、
秀吉さんの造った名護屋城が、
安土城と微妙に形が似てる気がするなあ・・・。
建物と武将の配置は、
安土を踏襲してるかもなあ(妄想)。



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