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登美ノ勝也

Author:登美ノ勝也
武将について語りたくて「天下侍魂」というHPをつくりました。織田信長の家臣団とその六大軍団長たちの家臣団、戦国・室町・鎌倉の大名達とその家臣団について探求していきたいと思います。
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島津義久

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今日の気分で島津義久!(のつもり。

1581年頃に信長様から
はるばる「大友、島津の停戦」交渉の使者が
派遣されたときの当事者として。

なんでか早朝に目が覚めたので、
思いをはせてみました。

肩書きをつけるなら、
「関東贔屓馬鹿一代男」かなあ~
ともおもったんですが、
なんかあれだなあと思って
やめときました(笑。

肝付兼続さんが悔し紛れに放った言葉です。

ある意味、真実なんだろなあ~と
思ってますw。

やはり鎌倉時代からの血統の誇りとか、
使命感が、九州平定への原動力にもなってたと
推測されますし。

それにしても、
内・外の地頭を置いての
システマチックな支配は、
戦国大名っぽいというか、
信長様のやりかたと通じるものがあるのと
ちゃうのんかなあ~と、漠然と思いました。

足場を固めた親父の貴久さんが偉いのんかなあ。

で、息子達がその基盤の上に
方面軍指揮官として各地域を平定していく形でしょうか。
(織田家とにている・・)

ある意味南蛮の文物が、畿内に比べ
定着してきた感のある九州の戦闘方法と、

関東の戦闘方法を取り込んだ織田軍の
畿内の戦闘方法がぶつかった時って
どうだったんだろう~と妄想してしまいます。

しかし、島津義久さんは親織田派だった様子なので
(というか中央権力に畏敬の念が強いのかな?)
戦闘にまでならなかったでしょうか。

なんかいいこと書いてませんが、
戦国時代の当主ということで、
島津義弘殿よりも、義久さんが好きです!(なぞっす。

もう一回寝よう・・・・。zzz


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矢部家定(康信)

odano880.jpg

今日の気分で信長様の側近、
矢部家定(康信)さん!!(のつもり。

ひさびさに人物です。
しかもペン書き。

最近ずっとペンタブレットの練習を
つんでたわけですが、どうも慣れませんね。

鉛筆下書き、ペン清書が慣れてるというか。
手早いです。

想像した通り更新がきつい。
まあ自己満足やから納得できればいいんだと
思うのですが・・・。

で、矢部さんですが、
最近気になる武将です。
秀吉さんと仲が悪かったので不遇のうちに生涯を閉じる
様子ですが、ある意味織田惣領家に忠節を尽くしたと
いえなくもないのかな??

長谷川秀一さんは朝鮮で客死。(秀吉に臣従。

堀秀政さんは大名となるも
都からは離れた場所やし、若くして病死。(秀吉に臣従。

福富・菅屋・森乱さん達は本能寺で散るわけですし。

矢部さん、なびかずによく頑張った(涙。

意地をみせてくれた感じじゃないでしょうか。
(従軍してるのかな?)

それにしても、
各方面軍に軍監(検使)として派遣される
中国方面軍の堀さんや、
中国→東海道の長谷川さん。
北陸道の菅屋さん。

あとは野々村さんとか、

今までこの人達は、
のちに秀吉さんが家臣団の中で、
石田三成を中心に形成したような五奉行のような、

元祖の織田家の五奉行体制だったのかなと
妄想してたんですが、

尊敬する谷口克広さんの『織田信長人名事典』
で河口宗吉の頁でみつけたんですが、

信長様側近の「10人の沙汰人」
という集団にふくまれる人達が
彼らであって、

彼ら10人の中からローテーション的に選ばれて、
順次戦場(最前線)に信長様の
指示をとばしにいってたのでしょうかねえ~。

ということは五奉行どころか
10奉行(え・・・。

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原田直政の軍団

harada001.jpg

今日の気分で、原田(塙)直政さんの軍団。

「長篠の合戦」以降に本格始動するかんじでしょうか。

外様の遊撃軍団を束ねた
非常に不安定な地盤の上での旗頭。

畿内の武将にしてみれば、
「虎の威をかるOO」というか。

どこまで原田さんのために
忠誠心をもって
はたらいていたのでしょうね。

原田さん戦死の跡をうけて、
前述の佐久間さんが大軍団を
率いて登場しますが、

佐久間殿は原田さんにくらべて、
元から大身というか、
尾張時代からの与力が
しっかりしていたので、
独自の勢力でもって
多少のトラブルがあっても
石山本願寺を
おさえきれたのではないでしょうか。

失敗から学ぶ信長様
さすがでござりまする~w

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佐久間信盛の家臣団と軍団

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佐久間信盛の家臣団と軍団
で思うところかいてみました。

オレンジ色のところが信長様が付属した7カ国の与力
のいるところ。

その他に荒木・筒井・長岡・惟任などの遊撃軍団長が
臨機応変に佐久間さんの補助をしていたはず。

織田信忠さんが、さらに畿内の上位(上級)
指揮官(支配者)として君臨し、
紀州雑賀攻め、播磨神吉城攻め
別所攻め、荒木攻めに活動し、

そのかたわらで、

佐久間さんはず~っと石山本願寺を封じる蓋の役目を
していたと推測されます。


1580年の石山退去後にその役割を終えますが、
佐久間軍団解体後は、

和泉・河内は大坂に駐留する、惟住長秀・津田信澄のもと
四国遠征に向けて力を蓄えていたかと。

大和は伊賀平定や、高野山征伐に向けて、

近江は信長様直参の近衛軍に、

三河・尾張は織田信忠さんのお膝元で
対武田(遠江高天神城攻略)
に方向転換したと推測されます。

領国内の最大の敵・石山がなくなったことにより、
ある意味、領国外に、より地理的に効率的な
軍事力投入が可能になり、佐久間軍団の
役割はおわったのでしょう。

とゆうか、信長様子息の成長により、
多くの軍事力を動員できる佐久間さんの
存在が邪魔となったのではないでしょうか。

彼がいなくなることで、
間接的に指示しないといけない軍事力が、
直接的に動員できるようになると。

それにしても与力衆のいるところは、
遠征に参陣できるほど
安定した勢力圏だったということなのでしょうね。

とにかく合理的な信長様には、
今後の展開を早くから決めていて、
佐久間さん追放は予定のうちだったのかも
しれませんね。
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滝川(瀧川)一益の家臣団と軍団

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takigawa005.jpg

一益さんの家臣団というか、軍団の分布について
考えてみました(笑。

一益さんは、信長様の子息・三兄弟の後見人的な
役割をいつもになっていたような印象があるのですが。

池田恒興との縁戚関係が重視されていますが、

一益さん自身、織田信秀さんの娘婿のようですし、
重複する濃いい血縁関係で結ばれていたのでは
ないでしょうか。

1567~1569年にかけて北伊勢で
独立軍団を創り上げて
いるようなので、出世頭といってもよいかと
思われます。

松永久秀の謀反があってからは、
畿内での織田信忠さんの後見人的に
各地に従軍しているようです。

親戚の池田恒興が摂津の旗頭に
抜擢されたのも、信忠さんと一益さんの
意向が働いていたかもしれませんね。


1580年筒井順慶さんの大和城割にも
明智(惟任)光秀とうごいているわけですから、
大和地方もことさら光秀の支配下というわけではなく、
伊勢側からの一益さんの監視も、
家中統率の支配力として動いていたのでは
ないのでしょうか。

1582年の「甲州乱入」にも若手の
ブレーキ役として付き添いますし。


というわけで、一益さん。
織田信忠軍団に含めても
差し支えないような気もします。

天下統一後に一益さんが、
名だたる武田家の旧臣を引き連れて
上洛する勇姿を妄想すると
泣けてきそうですね。


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羽柴秀吉の家臣団

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今日の気分で、1582年頃の
羽柴秀吉さんの家臣団。

たしか「武功夜話」では前野長康さんが
長岡藤孝さんから「本能寺の変」の連絡を、
いち早く受けています。

秀長さんの家老のようですし、
但馬・丹後の距離的な
近さもあるのかなあ・・。

宮部継潤さんは、
1573年頃の近江で
織田家重臣の配置でずっぽりと抜け落ちている
浅井郡、伊香郡のうちに
知行地があったのでしょうか。

当初、京極高次さんでもいたのかな?
と妄想していたのですが、
どうやら当時は直参馬廻として
安土にほど近い、西ノ湖の西岸にいたみたいです。

あとは事績不明な新庄直頼か、
信長様直参馬廻の阿閉さん。

もしくは、竹生島奉加帳に名前の見られる
元浅井家家臣、今西氏、今井氏とか。

宮部与力の田中吉政さんの出身地が、
高島郡の磯野員昌がいた新庄城周辺そうなのも
きになるところです。

山陰道で惟任日向守光秀の領土
拡張域を塞ぐ結果となってしまったのは、

山陽方面の羽柴秀吉領はそのうち、
織田秀勝の所領となって
織田一門に還元されるから、
弟の羽柴秀長領を
羽柴(木下)家のものとして
子孫に残してやろうという信長様の配慮が
働いているのかもしれませんねえ~(妄想。

それにしても、嗚呼、光秀さん・・・。

戦国時代は常に、
有力武将の目の前に土地という
ニンジンをぶら下げていないと
余計なことに心を奪われてしまうのかも
しれませんね~。

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織田信忠の家臣団

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今日の気分で織田家の家臣団編です(笑。

信長様の嫡男・
織田信忠さんを教科書常連にする会ということで、

美濃・岐阜を信長様から譲られたときに
付属された家臣団が、
1582年頃にはどうなっていたかということで、
分布図的なものをつくってみましたw。

1576年の信長様の負傷事件以降は、
信忠さんが前線の「御名代」として、
畿内にて、松永、石山本願寺、
別所、荒木という強敵に対して
弓鉄砲の死地の中で頑張ってきたことだろうと
思います。

この戦功に対して、
東美濃にて川尻とともに重鎮だった
信忠さんの重臣・
池田恒興が畿内の摂津旗頭として
抜擢されたのだと推測されます。

池田、瀧川は親戚でもあり、
畿内にその勢力を植えつける事は
信長様にとっても
プラスな一面があったことでしょう。

摂津在地の豪族・塩川家は
信忠さんが娘婿となったので信忠さん個人の
親族衆といってもさしつかえないかな?っと。

それに1582年「甲斐乱入」に飛騨口から従った
金森長近。

斎藤道三さんの娘婿として織田信長様とは
義理の兄弟。

その子息たちは織田信忠さん付きの
小姓になっていたりもします。

個人的つながりから金森さんに限っては
柴田の北国軍団からはやや切り離して
考えてもいいのではないのかな?

他の北国衆、
前田・佐々・不破の越前衆が荒木村重討伐に
狩り出されるのは、畿内での戦闘の発展系を
北陸軍に学習させるためだったのでは
ないのかな~と思います。

発展する火器や、攻城戦の道具を
織田家内でも均一というか、レベルを
等しくしようという配慮もあったのかなと
想像する次第であります(妄想。

あとの目的は、
跡次ぎ信忠さんへの面あわせとか・・。

美濃では稲葉・氏家さんが信長様直属であったろうし、
馬廻衆をさっぴかないといけませんが、
そこは大目に見てください。

川尻さんの美濃旧領には、確か団忠正さんが
はいったのかな(地図に名前入れ忘れました、汗。

瀧川さんの伊勢の地には誰が入る予定だったのか
いまいちわかりませんが。

小笠原貞慶さんはずっと徳川家康のところにいたのではなく、

一度織田家に出仕して、
越中に派遣された
神保長住さんのように、

織田信長様の命で、「甲州乱入」前に
先遣部隊として、
信濃の撹乱に派遣されていたみたいですね。

武田家臣で「甲州乱入」に織田家に降伏した
小笠原信嶺さんとの関係から、
なんかややこしいことになってるみたいです。

それにしても森長可さん、いきなり
越後に攻め込んでいるのは
なんで??(笑。

すごく自由人だよなあ~。


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徳川家康家臣団

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織田家と徳川家の領土の図を見てていつも不思議に思うのですが、

東海道は一円、徳川領だったの???

という疑問です。

徳川家康の家臣とされる人物が、奥平や、酒井忠次までもが、
織田信長様に個人個人で馬や鷹を献上するのはなんでですか??

信長様にとって、数ある松平の中で
一番献身的に信長様に仕えたのが家康さんだったのでは
ないでしょうか?

桜井松平とか、大草松平とか、
昔から親織田というか、
宗家から独立を望む松平がたくさんいたので
家康さんは必死に信長様にすがったのではないのかな?
と推測するわけです(妄想はじまりw。

まず吉良家、その血流の西尾吉次さんの所領は何処だったのか?
水野家の家老の小栗、浅井と
織田家と縁戚の大橋、中根の所領は?

1560年代前半同盟成立後に(家康に頼まれて?)
信長様は北西三河の三宅・鈴木党を平定するようですが、
そこで巴川より西を織田領に併合し
高橋衆を従えたことになってるんですが・・。

渥美半島では、家康さんを信秀公に売り飛ばした戸田氏、
有力豪族の牧野氏が健在。

家康さんは岡崎から浜松まで直線的に城を並べ、
そこに酒井忠次さん等の有力家臣を
外様衆の城ひとつひとつに見張りのように
対の城に配置しています。

1582年に駿河を手に入れてからは、
三河の有力外様、三宅・牧野を前線に、
遠江の有力外様、久能(久野)を移動、

松平有力庶家は、陣代がいれば陣代を独立させて
その力を分割するように務めているように見えます。

信長様の指示なのか、
必死の家康さんが考え出したアイデアなのか。

ドラマでやってるような
平坦な道のりではなく、

あがいてあがいて
天下を取った家康さんのほうが、
俺は好きです。

とゆうか天下人となったスゴミに
納得がいきます(笑。

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近江大溝城

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津田信澄さんの居城、
大溝城の絵を描き直しました。

1575年に越前一向一揆征伐に、
養父・柴田勝家さん、
丹羽(惟住)長秀さんと
行動をともにしています。

1580年以降も、
大坂石山本願寺跡に
本丸は丹羽(惟住)長秀さん、
二ノ丸千貫櫓を津田信澄さんが
拠点とし、
大坂の町奉行を務めていた様子です。

あまり、惟任光秀とは・・・

宗教上も、
光秀さん一家がかなり切支丹的な
様子ですが、

津田信澄さんは、
かなりの反切支丹的思想のようで。

ひと世代前の
森可成、坂井政尚のように、
あまりの仲の嫌悪さにあきれて、
信長様が婚姻により両家の間を取り持った、
というような感じの婚姻だったりしてなあ~。

と話しがそれていきますがw。

四国遠征軍は、
丹羽(惟住)長秀さんの
北畿(東)方面軍が発展して、
遊撃軍団長に成長した蜂屋頼隆、津田信澄さんを
伴い、信長公御名代・三好信孝を
推戴しての軍団だったのではないでしょうかね。

軍団長等を束ねる
「御名代」という地位は、
嫡男・織田信忠、次男・北畠信雄、三男・三好信孝しか
勤められないという点が
ポイントだと思います(妄想~。


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丹羽(惟住)長秀家臣団

korezumi002.jpg

1570年
丹羽長秀の佐和山入城から、
(仮称)北畿東方面軍が編成された
のではないでしょうか。

長秀さんと同陣する武将名、地理的な配置から、
ひとつの纏まった軍団と考えてもおかしくないと思います(妄想)。

korezumi002.jpg


1573年浅井・朝倉の滅亡から、
本格的に若狭支配に乗り出した
丹羽長秀。

1575年惟住姓を賜り、
その勢力圏の総力を挙げて
安土建設や、
若狭方面の治安維持と
織田政権の領国化に
邁進したと推測されます。

おそらく与力であったであろう
羽柴秀吉が天下人となってしまったため、
丹羽長秀の存在が不当に
ひきずりおろされている気がしてならないので、
なんとかアゲアゲ↑していきたいのですが。

しかし、一般ピーポの自分では
長秀さんの評価を覆すことは
なかなかできないので、

歴史家の皆様にもう一度、
検証していただいてですね、

長秀さんにも、こんなに輝いていた時期が
あったんだと
皆が納得する功績を見つけていただいて、

日本史の中での歴史的地位を
向上してもらいたいです。

というか教科書に常連で登場するくらいに
丹羽長秀公を応援しましょう~!!(エ。

織田家のために
みなさん頑張りましょう~。


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近江佐和山城

今日の気分も佐和山城~♪

というわけで、惟住(丹羽)長秀さんの居城にして、
石田三成の城。

織田信長の家臣団の居城を、
紹介の本をみてると、
いつも本丸というか、一山の郭だけで紹介が
終わってしまってるのでわないのかな?と、
思ってしまうわけです。

いろんな自然の要害を利用した
強敵たちの城を攻略してきた織田軍ですから、

その応用をきかせて、
自然地形を上手く取り込み
大阪城のように、
何重にも外郭をもった要塞を、
築いていたにちがいありません(妄想。笑

佐和山城のある山の北側尾根、弁天山には
北ノ山城というのがあったらしいですが、
これも取り込んでの佐和山城では?


それに佐和山周辺の旧地形図をみると、
「入江内湖」、「松原内湖」という、
琵琶湖の内湖に囲まれているでは
ありませんか。

しかも『信長公記』には織田信長様が
佐和山に逗留し、
松原浦で巨船の建造を自ら指示したとか。

きっと佐和山城も、
「大溝」、「坂本」、「長浜」、「安土」と連動する
水城機能を備えた要塞だったのではないでしょうか。

松原内湖周辺を発掘するときは、
中世の遺構に充分気を払って
調査をおこなってほしいな~と、
ふと思いました。
何か素敵なものが出土するかも(妄想ですが。


sawayama008.jpg

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徳川家康の家臣団と軍団

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大須賀康高とか、
徳川信康周辺の人物。

各国人と織田家との関係、
精査すれば、
新しい何かがみえてくるかと思いました。




m(_ _)mペコリン。

惟住(丹羽)長秀居城

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今日の気分で佐和山城です!!(のつもりです。
sawayama02_convert_20090705120708.jpg

磯野員昌が退去したあと丹羽長秀さんが在番となり、
朝倉・浅井家滅亡後は、
越前・加賀の一向一揆、
または越後の上杉謙信の上洛軍への抑えとして、

北国街道に鎮座。
織田家に逆らった多くの武将の処刑場もかねた
要塞へと整備されていくようです。

浅井の磯野時代は六角氏に備えて、
南方面に守備の重点が置かれていたでしょうし、

織田時代は北向き。

南北に総構えを持った、巨大な山城だったんじゃあ~
ないでしょうかね?。

城内を縦断する街道への関所的な機能も考えて
いたのかと想像してみました。

のちに城主となる石田三成には
「すぎた城だ」と、
皆から羨望の眼差しを向けられる城です。

井伊直政さんが、
山城であることを嫌い、
1キロ離れた彦根城へと
拠点を移しますが、

前城主達が運悪く滅びたから縁起が悪いとか、

北国街道の蓋として機能しすぎるため、
通行の邪魔で、
道を開ける必要があったのかもしれませんね(妄想。

多くの石垣や建物が、
彦根城に移築されてしまったみたいですが、

整備してほしい城だなあ~と思います。


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羽柴秀吉居城

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今日の気分で長浜城のつもりです。

秀吉さんが旧浅井領を支配するために築いた水城です。


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北国からの豊かな物資を、琵琶湖の湖上交通を通じて
送り出す役割をもっていたのかなあと。

軍事的な要としては佐和山城の方が担っていたのかな~と。

縄張りは大溝城とも、坂本城とも違ってなんか独特な感じがいたします。

(坂本城は生駒親正親子が讃岐に築いた高松城が縄張り的に
 うり二つのような気がします。)

(大溝城は琵琶湖に家康が戸田氏に命じて築かせた膳所城が
 似ているような・・。)

川並衆の慣れ親しんだ木曽川の中洲にあるような、
熱田とか、津島的な、
尾張・北伊勢系の要素を取り込んでいるのでしょうか。

なんとなく思いを馳せて描いてみました(笑。


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