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登美ノ勝也

Author:登美ノ勝也
武将について語りたくて「天下侍魂」というHPをつくりました。織田信長の家臣団とその六大軍団長たちの家臣団、戦国・室町・鎌倉の大名達とその家臣団について探求していきたいと思います。
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佐々木道誉

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今日の気分は京極高氏!!(のつもりです。)

佐々木の入道道誉。
得宗・北条高時から「高」の一字を貰い、
お気に入りの側近だったようですが、

世情の流れに敏感で、
高時を見限って、足利尊氏とともに
新しい武家政権を目指します。

「天道」

というものを読みきる力のある人物だったのでしょう。

かといって、ライバルが自滅し
天下の副将軍となっても、
高ノ師直や、山名時氏のように
主家をおろそかにする様なおごることも無く。
(自分の力量も知っていた。)

身の程を知るといいますが、
尊氏よりも芸達者ですけど
政治と違う方面で頂点に立つことが
貴公子的な「美学」
だったのでしょうか。

気になる武将であります。

信長様が、この人の子孫である京極高次を
かわいがるのも、道誉さんのカリスマ
に拠るところ大なのかなあ。

というわけで、
南北朝動乱にひときわ異彩を放つ
バサラ大名、京極高氏さんの
孤高の侍魂に合掌。

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荒木村次

odano790.jpg
今日の気分は荒木村次!!(のつもりです。)

摂津有岡城主 荒木村重の嫡男にして、
惟任光秀の娘婿さんです。

1578年の父・村重の謀反に際して、
(または毛利家を頼って落ちるときに)
光秀さんの娘とは離縁。

自分の運命に巻き込みたくない
という思いか・・

なんというか・・

愛してたんでしょうかねえ(ぽっ)。

ちなみに娘さんは明智(三宅)の
秀満(光春)さんと再婚しはります。

「本能寺の変」のち、
豊臣秀吉に出仕して
「賤ケ岳の合戦」に奮闘するが負傷。

その傷がもとで若くして
亡くなられはるそうです(哀。

哀・戦士ですねえ~

それにしても
お父さんは本願寺とも
縁が強いようですし。

奥さんの姉妹は細川ガラシャ?

村次さん自身は宗教的にはどちらの
宗派に身を置いていたのか
ということも気がかりです。

時代の荒波に
呑み込まれ散った、
荒木村次さんの侍魂に
合掌。

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織田勝長

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今日の気分で織田(武田)勝長!!(のつもり。)

信長様の四男(五男とも)にして、
美濃遠山家養子から、
甲斐武田家の人質となり、
父の宿敵・武田勝頼の養子になったとも。
(とりあえず勝頼を烏帽子親に元服加冠して、
 勝頼の「勝」、信長の「長」で勝長と、俗説。)

最近では、織田信房と呼ばれています。

勝頼から織田家との和平の為に送還され、
遊撃軍団長として信孝さんが抜けた後の
信忠軍団の一員となるようです。

甲斐の人質時代にきっと
兄・信忠さんの許嫁・松姫と
であっていたことでしょう。

武田家と深い縁がある人なので
武田菱融合織田家紋&信玄風羽織にしてみました。

「本能寺の変」で兄とともにお亡くなりに
なりますが、子供がいた様子。子供は、
武田家の血をひいていたりしたんでしょうか。

「甲州乱入」では上野国まで侵攻し、
顔見知りの武田家家臣の調略に、
大活躍したことでしょう。

次代を担う一門の中核メンバーと
なっていただろうなあ~(妄想)。

波乱の短い生涯をおくった
織田勝長さんの侍魂に、
合掌。

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織田信澄

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今日の気分で織田(津田)信澄さんです!
(のつもりです。)

四コマ漫画では、信忠さんの
ライバル兼友人ということで
信忠さんイジリに一役かってもらってますw

ちなみにキャラ的には、
シャアアズナボォ~をイメージしてます。
お父さんの仇討ち~ってことで。

お父さんは信長様の弟・織田信勝(信行)さんなんですが、
お父さんの事で、
きになってるのは「達成」の名乗りです。

織田惣領家の名と似てる字を
意識して名乗ったのか、養子的な関係にあったのか。
興味のあるところです。

信澄さんは、
柴田勝家に養育され、近江浅井の家老・磯野員昌の養子
となり、近江琵琶湖の北西岸にある大溝城を居城
とする関係から、山城・坂本の長岡藤孝・明智光秀を
後援する役割を与えられているようです。

南北朝時代に若狭を領する一色家の
京での豪勢な屋敷などの富裕ぶりは
すさまじかったと伝わりますので、

丹羽長秀さんの若狭方面軍、
丹後一色家を攻略することを使命とされた長岡藤孝さん、
地味な方面ながら、
その領地攻略と支配への責任は限りなく重い
ものだったのかなあ~と思います(妄想)。

と又話しがそれてきますが・・。

当時の記録に「一段の一物也」と記されている
信澄さん「一物」=「逸物」=「いちもつ?」=「なにのことですか?」
と意味がイマイチ、
脳内で変な変換が繰り返されております(笑)。

残虐な素行が記録されたり、
上杉家には「本能寺の変」は信澄がおこしたとか
誤報がもたらされていたり、

とにかく、なにかしでかしそうな人物と
世間ではみられていたのでしょう。

「甲州(武田)征伐」で跡取りとして
軍功を残した、信忠さんが「天下の儀」譲渡されて、
信長様の如く、天下人として君臨すれば、

もう武名をあげなくてもいいよって感じで。

前線で戦う将から「御身大事」の身分
となって陣頭指揮にはでないと思います。

大事な跡取りですし。

前線の司令官(御名代)は、織田信雄、
織田信孝、織田信澄さん一門衆が抜擢されていくことと
なったのではないでしょうか(妄想~)。

とゆうわけで(どゆわけ~)、

惟任光秀とのつながりで散った
織田信澄さんの若き侍魂に、
合掌。


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織田秀勝

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今日の気分は織田(羽柴)秀勝さん!(のつもり。)

御歳18才で亡くなられはりました。

駆け抜けた人生(涙)。

信長様の四男とされてますが、
美濃・遠山家をへて武田家の養子(人質)とされた、
織田(武田)勝長さんよりかは若いようです。

中国陣では一部隊を率いて
養父・羽柴秀吉さんとともに
高松城を囲んでいる様子。

「羽柴(織田)秀勝」と呼ばれた
この方でも織田家の相続権を、

上の兄達がいなくなれば権利が
まわってきたのかもしれませんねえ~。

秀吉さんが信孝・信雄さんを
排除するのは
織田秀勝さんの為だったということなら、
多少 許せるような気もします。

で、信長様が羽柴秀吉に与えたという陣羽織、
織田の家紋と秀吉の家紋が刺繍されたものですが、
あれは養子・秀勝さんのものでは??w

又、話しがそれてきますが、
惟住(丹羽)長秀さんの息子が
織田家の婿となり、

兄弟ともいえる池田恒興さんと
その息子・之助(元助)。

中川清秀さんとこの
息子を娘婿に迎え、

織田信忠さんの嫁に塩川長満さんの娘。

畿内は東西に横軸一本のラインを
織田血縁勢力で結び磐石のように
思えます。

畿内南北の縦軸(京極・筒井?)が
もすこし早く補強できていれば
なあ~・・・。

あと自分のHPで一番妄想炸裂なのが
遊びで創った羽柴秀吉軍団の付録、
「織田秀勝軍団」です。

藤掛長勝さんは
秀勝さん付きの家老で間違いないの
じゃないのかな?
とおもうわけなのですが。

豊臣秀次、秀勝の家臣団として、
跡継ぎへとひきつがれていく家臣団のベースは
もともとは織田秀勝さんの家臣団にあったのでは
ないのかなあ(妄想)。

小牧・長久手のもろさは
シャッフルが上手くいかなかったのが
原因とか・・・(妄想)。

というわけで、
歴史の狭間に埋もれた
織田秀勝さんの侍魂に合掌。

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織田信雄

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今日の気分で北畠(織田)
三介信雄さんです(のつもりです)。

領国が伊勢なので、
なんとなく神官風にしてみました(笑)。

養子政策で、北畠家を
のっとるわけですが、

かなりあくどいことをしたんでしょう。

伊勢攻略の事は史料が
かなり少ないようですが、

『信長公記』に
正確に記録が残っていたとしても、
それはそれで、まずいことばかりで

筆者・太田牛一さんもわざと
かかなかったのかなあ・・。

信雄さんの家系は続いてるわけですし。

きっと世に公表できない
織田家の闇の部分なんでしょうねえ。

ということで もやもやしている
自分を納得させる。

信雄さんは、日本の古い部分を
全部しょわされて、兄弟の中でも
特殊な立場に立たされてたのでは
ないでしょうか。

平安の平清盛のご先祖の本拠国。
南北朝の旧国主、怨念の北畠家。
戦国の伊勢一向一揆。
そして忍者の国の伊賀攻略。

それなりによくやってたんじゃ?

家臣団が、母親の生駒家に縁の有る人々だったり、
尾張の旧国主・斯波一族で固められてたり
するところも、なんか古いものを背負わされてるような
気がします。

信長様の考えで、
兄・信忠さんに家中の気鋭の人々、
弟・信孝さんには最先端の人々、
を振り分けるために人身御供に
されてたりするかもですねえ。

それはそれで人柄というか
そういう耐性のある
政治力のある性格なんだろうと
信長様は認識していたと、
良い方に考えてみたいと思います。

有る意味、
信長様の期待に応え、
歴史的に貴重なもの(血?)を
守り通した信雄さんの
侍魂に、合掌~。

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織田信孝

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今日の気分で三七信孝さんです!!(のつもりです。)

信孝さんの場合は名字を、
神戸にするか、
三好にするか、
織田の名字でいくか、
いつも迷います。

信長様在世中なら
嫡男・信忠さんとはっきり区別するために、
最終的に養子となっていた三好康長さんの
三好姓で人生を生きていったと思いますが。

信長様は自分の経験から、
兄弟争いをやめさせるため、
嫡男は奇妙丸と早くから決めていたんでは
ないでしょうか。

1575年の柴田勝家さんあての
北陸支配の定めがきに、
「われわれの方に足を向けてねるな!」
とかいてはるし、複数形の
我々とは信忠さんを指してるんだろうなと
思うわけです。

で、軍事指揮権を子供達に
徐々に譲渡していくわけですが、
その特権こそ「御名代」という
肩書きだったのかなあ~と
おもうわけです。

信孝さんは兄・信忠さんの
軍団の一翼として播磨神吉とかに
出陣してるんですが、

他にも単独で、高野山を相手に
紀州粉河寺あたりに在陣して
小競り合いを続けている様子です。

そういう下積みの軍事指揮の実績が
あったからこその、勇者の証の
「永楽通宝」の旗印の許可なり(本能寺のちに
自分で使い出したのならアレですけどw)、

西国攻めの指揮者への
就任だったんだろうと思います。

で、細川忠興軍功記には
西国の「御名代」として三七信孝様と
記されています。

「一門(連枝)衆」として特別な地位の
仲間入りをしたというか、

信忠さんの松永、荒木、別所、武田征伐。
信雄さんの伊賀攻め、
それにつづく土佐攻めの大将で
信長様の子として認められての
「御名代」であったわけで、

信長様は階級性を
けっこうきっちり作ろうと
おもってたんではないでしょうか。

信孝さんは、
瀧川・柴田・惟住・惟任・羽柴・佐久間・川尻・池田達とは
あくまで立場が違うというか、
血縁関係的に特権階級というか、
普通の軍団長として扱うのは おかしい と思うんですが
歴史学素人の素朴な意見ですが
これ如何。

畿内での織田家
一門衆支配が進む中で、
羽柴家は信長様の子・秀勝さんが
継承しスムーズに一門に。

そういう意味で、惟任家は
外様大名として孤立する立場に
立たされつつあったのかなとも思います。


それにしても、二条御所で籠城した信忠さんを
一番近くで後詰として救援できた、まとまった軍事力を
もつ大将さんは、
筒井順慶だと思うのですが、なんで惟任(明智)軍に
一戦およばなかったのか。

京都公家衆か、惟任光秀さんの情報操作に
踊らされてしまったんでしょうかねえ。

というわけで長年おもってる疑問をば
つらつら書いてみました。

栄光を目前にし
露と消えた
織田信孝さんの侍魂に合掌~。

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織田信長

odano781.jpg
今日のきぶんで、信長様です(つもりです)。

最近はHP「天下侍魂」を、
こそこそと改変していってます。

かきこむほどに重くなって
なかなか場面が変わらないので、
重たいところを分割して
(信長様年表、織田水軍の)、
ページを新たに増設しました。

最近の発見はページ上でイラストの枠をつかんだら
縮小、拡大が思いのままだったことに
気がつきました(ーー;)

あとアフェリエイトの商品検索のページから
直接HPを立ち上げて貼り付けることが
可能なことを知りました(笑。

今まで、もうひとつを隣にたちあげて
貼り付けてたんですが、
どうりで時々おちるわけです。

ちょっとづつですが、新機能を覚えていってます。
継続こそ力なり。

これからも趣味を続けていこう。

とゆうわけで、
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安倍貞任

odano780.jpg
今日の気分は、安倍貞任さんです!!(のつもりです。)

別名、厨川次郎。

安倍頼良さんの次男ですが、
数ある兄弟の中から、戦時下ですから
武勇を持って跡職を相続されたようです。

「前九年後三年の役」のエピソードとして
和歌を応酬する風流な戦い
という感じで逸話が残されているのですが、
通説として理解されるその解釈が、
ずっとしっくりこないでいます。

衣川の柵がおちるとき、
源ノ義家が
「衣のたてはほころびにけり!!」

といった言葉に対して、
「年をへし 糸の乱れの くるしさに」

と前の句を返し、義家は感じ入って追撃をあきらめた
ということになってます。

後ろが先で前があと?

ほんとに和歌として成立しただけで
義家さんが感動するでしょうか?

何かもっと深い意味はないのかな?

(以下、妄想を展開)
貞任さんの言いたかった意図は?

清原氏の加勢を得て源氏が優勢にたったことから、

(年をへし)は長年交わってきた同じ俘囚の清原氏
との繋がりにかけた言葉で、

また清原氏を「糸魚川」(勢力範囲?)の(糸)とかけ、

俘囚の長者どうしの内訌を(乱れ)とし、

その同士討ちの(苦しさに)ということで、

「源氏軍の力によって安倍軍が敗退するわけではない、
 清原氏の裏切りにより敗れるのだ
 この勝利を源氏の力量だと思っておごるな」

というかんじで貞任さんが文句を言ったから、
武士道というか、武門のプライドがある
義家は手が出せなくなったんじゃないでしょうか?
それに清原氏に対しても痛烈な文句では
なかったのでしょうか?

ということで、
安倍貞任さんは「武」一辺倒ではなく
源ノ義家さんを、
和歌をもって撃退した知略の武将といえるのかなあ~。

と自分なりに解釈してみたんですが、これ如何。

義家さんの台詞ですが、
衣川は柵ではなく「館(たて)」なんですねえ。
もともと政庁が衣川にあったからでしょうか。

とまあ、そんな感じで、
この和歌にはもっといろんな深い意図が
隠されているような気がします。

平ノ将門さん、藤原純友さん以上に
朝廷に深い恨みを残したでしょう
奥州王・安倍貞任さんの
気高き侍魂に、合掌~。

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中川清秀

odano778.jpg
今日の気分は中川清秀!!(のつもり。)
荒木村重さんと従兄弟です。

摂津国茨木城主にして、
1580年羽柴秀吉と兄弟の契りを結ぶ将。

噂では切支丹だったとも。
(高山右近に比べてマイナーなのは何故)

信長様が後援していた
摂津三守護のひとり和田惟政さんを討ち果たし、
勇名を轟かせます。

切支丹になりかけだった和田惟政さんの
兜の前立ての「ばつ(バテ)十字」を受け継いだらしく、
中川クルスという家紋になります。

摂津や河内の領主として、
うまく領民と繋がっていくには
切支丹とならざるをえない社会状況
だったりするのかなあ・・・(妄想)。

息子は信長様の娘婿となり
準織田一門となります。

「本能寺の変」がなければ、
飛躍的に大名の道を進んだかもしれませんねえ。

肖像画では「十河頭」のようですが、
自分の中でのイメージが
洋楽ハードロッカーなので(笑)。

信仰上自殺が禁じられてるから、
佐久間盛政軍に対して玉砕してしまったのかなあ。

高山・中川隊を先鋒にすれば、
生命をまっとうしようとして逃げ出すか、
神を信じて玉砕するか、二択しかなく
(後で弾圧されることを想像すれば一択しかないか?)
窮地に恐ろしい程の強さを発揮したかもしれませんね。

キリスト教が当時すうっと入ってくるのは、
主人に対する忠誠心より、主なのが
下克上の風潮にあうんでしょうか(謎)。

できることなら織田家に天下をとってもらい、
おもしろそうな和洋折衷の日本文化を
つくりあげてほしかったです。

それにしても、高槻領主の
高山さんは神社焼きうちしたらしいから廃仏棄釈運動
とかまでいってしまいそうですね(汗)。

キリスト教に理解を示していたといわれる
黒田孝高、神戸信孝、織田信忠さん、蒲生氏郷。
南蛮文化をどこまで受け入れるつもりだったのでしょう~
と思いを馳せつつ・・。

中川瀬兵衛の
あらぶる侍魂に合掌~。


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