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登美ノ勝也

Author:登美ノ勝也
武将について語りたくて「天下侍魂」というHPをつくりました。織田信長の家臣団とその六大軍団長たちの家臣団、戦国・室町・鎌倉の大名達とその家臣団について探求していきたいと思います。
リンク先のHP「天下侍魂」ぜひ御笑覧くださいw


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播磨白旗城

akamatuhata01.png

官軍となった新田義貞軍を播磨国に引き付けて、

足利尊氏の再起を手伝った赤松入道円心の本拠地です。

楠木正成の千早赤坂城に比べて、単独で存在する孤高の城の様な感じです。

50日以上耐えたということですから、ひたすら堅く籠城したのか、

尾根伝いに繰り出して、ゲリラ活動をしたかのどちらかですが、

けっこう内陸部にある城なので、捨て置いて、尊氏を追跡してもよかったような気がします。

新田軍が何故、白旗城に拘り続けたのか?

・・・・謎です。


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千早赤坂城

chihayaakasaka01.png

最近、興味のあるところで更新します。
今、はまっているのは山城です。

最も難攻不落の山城といえば、我が郷土の英雄・楠木正成公の千早赤坂城かと思います。
もちろん、楠木正成公の武略も素晴らしいものがあったのでしょうが。

鎌倉幕府の錚々たる面々が討伐の為に出陣しては敗れる。

挙句の果てには、一土豪も鎮圧できない幕府に見切りをつけた諸豪族が、
各地で反乱を起こし、日本をひっくり返してしまうという・・。

建武新政の象徴的な城なんじゃないでしょうか。

では、何故、幕府軍を撃退しつづけれたのか?
地元の人達が、陰で協力していたでしょうけれども、謎ばかりです。

下赤坂城、上赤坂城、千早城の3城以外にも、色々と絵図には書き込まれています。
背後にどどんと構える金剛山の頂も気になるところです。

金剛山のおかげで、基本後方から、大軍勢に攻められる心配はないと言えるでしょう。
川に挟まれた立地というのも地図をじっくりみていると分かります。

この千早城とはじめとする城も、大軍を迎え撃つわけですから、それぞれが連動して機能していたものなのでしょう。
と考えると、金剛山を中心とした、一山全体を防御施設とした、数々の城(砦)を包括する、天然の要害こそが城であり、
「大千早赤坂城」とも呼べるものなのではないのか?と思うわけです。

では、14世紀初頭の山城とは、一つの曲輪(郭)を城と呼んでいる現在の視点とは感覚が違うものなのでは?となります。

人工の手が加えられているのかどうかは、発掘してみないと分かりませんので、ここからは推測でしかない話となっていきますが、

天然要害を利用した総構として、山城を見直していく必要があるのではないか?と、その思いを強くしています。
そこまでしてみると、武将の土着性というか地域密着性を、より掘り起こせて面白いのではないでしょうか。

というわけで、今、考えている事を、ヤフーの河川水位図を利用して図におこしてみました。
(最近、台風の影響で、河川水位の地図を見て、山城と結びついたところです。
この地図は拡大していくと等高線があってすごくいい感じです)

(恐々謹言)


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山陰道方面軍・上野頼兼

odanobu976.jpg

ちょっとワイルド系に決めてみました、

足利尊氏一門の猛将・上野頼兼のつもりです。

上野家は足利一門衆。八条院領上野荘の領主の家柄。

上野頼兼 (*~1351)上野・左馬助。足利一門。三河一色党。
上野頼遠(頼勝)の息。弟に氏勝。1336年3月筑後黒木城攻略に大将。
4月尊氏の西国落ちに石見を守備、周防に転戦。丹後・石見守護。
1343石見都野城攻囲。村井城攻囲。1348年石見三隅城攻囲。
1351年但馬守護。但馬にて戦死。息に上野直兼、詮兼。

<幕府創業期、山名時氏を従えて山陰地方を制圧していたかもしれない。
HP「天下侍魂」より引用。>

大将として軍団を率いたのは一代限りのようで、

子孫は将軍付きの側近。

渋川氏とよくにた感じで幕府の中枢で重きをなします。

というわけで、

政権の中央に残る事と、
地方の領主となること、
どっちが出世といえるのでしょうか。

幕府が強力なときは、守護よりも
力があったんじゃなかろうか
と妄想せずにはおられません。

というわけで、

山名家のおかげですっかり影の薄い上野頼兼および上野家を

室町幕府初期の功臣として推奨したいものであります。

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南北朝)宇都宮公綱

odanobu972.jpg

今日の気分で、

南北朝期の宇都宮公綱さんのつもりです。

宇都宮公綱 (1302~1356)治部大輔。宇都宮第9世。

宇都宮貞綱の息。母は北条長時の娘。
1333年「元弘の乱」に楠木正成討伐に上洛。
のち後醍醐天皇に応じ反鎌倉幕府。
1335年関東足利尊氏追討軍に従軍。
1335年足利尊氏軍に敗北し降服。
尊氏が九州に落ちた際に後醍醐天皇方に帰参。
関東に戻り、北畠顕家に従い各地を転戦する。55歳。
息に宇都宮氏綱。


この方も大変な時代に生まれた人物です。

先祖は源ノ頼義、義家に協力した藤原宗円という

下野国一の宮の神官だったかと思います。

時代が降って、

本家と分家の対立やら、

家臣団・紀清党の分裂やら。


この方にとって政権交代は、

望んでいたことだったのか・・。

どのような思いで時勢をみていたのかなと思う

今日この頃。


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関東管領 畠山国清

nixtuta965.jpg

今日の気分で、南北朝時代の関東管領、

ちょい悪、畠山国清さんのつもりで描きました。

事績は、


畠山国清 <関東執事1353~1361>(*~1362)
左近将監・阿波守・左京大夫・修理大夫・関東執事職・道誓。
畠山家国の息。足利基氏は姉妹の婿。足利直義の側近。
1335年「北条時行の乱」に足利尊氏の関東出征に従軍。
1335年新田義貞を三河矢矧川で防戦。
1336年足利尊氏に従い九州に上陸、菊池武敏との「多々良浜合戦」に武功。
1337~1351年紀伊国守護。1349年「観応の擾乱」に直義派。
高兄弟と対立する直義を河内石川城に匿い、南朝軍に降る。
細川顕氏の仲介で北朝に復帰。直義を遠江「薩??山の合戦」に破る。
1352年尊氏の命により鎌倉にて直義を毒殺する。
関東公方・足利基氏の執事に就任。
1359年12月関東軍を率いて上洛。
細川清氏と結び、仁木義長を失脚させる。
1360年関東に下向。
1363年専横により執事職を罷免される。<初期、南近畿の重鎮。>

リンク先「天下侍魂」より引用。

忠清から、

国清つながりです(笑。



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