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登美ノ勝也

Author:登美ノ勝也
武将について語りたくて「天下侍魂」というHPをつくりました。織田信長の家臣団とその六大軍団長たちの家臣団、戦国・室町・鎌倉の大名達とその家臣団について探求していきたいと思います。
リンク先のHP「天下侍魂」ぜひ御笑覧くださいw


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奥州清原系城柵 虚空蔵大台滝の柵

oudaitaki01.png

奥州の清原系の城柵シリーズの最後です。
秋田県の大台滝遺跡の調査でここが柵ではないかということで、縄張りについて考察してみました。
まずは一番引いて観た地形です。二本の大河に囲まれた位置ですが、北側は大きく離れています。
という事で河岸段丘を開析する小河川が、北側の備えであろうと考えます。
雄物川が南と西を防御する形です。

oudaitaki02.png

北側は小河川が開析した渓谷が備えとなっていて、館の東側には大軍を阻む山があります。

oudaitaki03.png

そして、山から尾根続きに岬状に突き出てくる台地部分に、おそらく館が造られていたのだろうということが読み取れます。
山間部にある金沢柵と大鳥居柵に比べ下流にあるので、形態が変化しつつあるようです。
向背の山が近いの事も前述した2柵とは相違するところです。
西側の段丘際にひょっとしたら別の館が、角になる要所にあるかもしれませんが、不勉強なもので今はよく解りません。
類似するものとしては、十三湊の福島城の河岸段丘上の立地に共通点があると言えます。

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奥州清原系河岸台地型城柵 沼ノ柵

numanosaku1.jpg

源ノ義家軍を撃退した、沼ノ柵について考察してみます。
上空から俯瞰してみますと、大河川の雄物川を前面の堀、天然の要害地形に利用している事は確実です。
北・西・南を雄物川に囲まれることにより、敵は東側から攻め込むしかなく、防御側は東に兵力を集中する事が可能です。
ということで東側に面する防御ラインが重要になってきますが、これも河川を利用していたものと推測されます。
というわけで、三角州地形の中に二等辺三角形が出来上がります。

沼ノ柵の東方には清原氏の拠点である、金沢柵や大鳥井柵(大鳥井館)があり、東から攻め込む敵軍を挟撃できる位置関係にあります。

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天然の要害地形を利用した総構(そうがまえ)から、拡大して中廓になる地形です。これも小河川に囲まれ、敵軍の通行可能な南東側に備える事で防御ラインを完成します。

numanosaku3.jpg

更に拡大して小廓です。小河川に囲まれて、更に細長くなった一帯が要害地形となります。これも通行可能な南東側に防御の兵力を集中することができます。

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更に拡大して、小河川に囲まれて細長い岬状の地形に絞られていくのかと思います。この状況で、類似の城柵を考えると、十三湊の半島状に突き出た部分に造成された十三湊安藤氏の城館や、城下町が思い浮かんできますが、沼ノ柵は十三湊の祖型となるものだったかもしれないと推測することが出来ると思います。

現在の町並みはそれなりにしっかりとした地盤に造られているのでしょうし、その町割りは十三湊に通じる区画が残っていると面白いと思いますが、はたしてどうなんでしょう。

旧地形については、地元の方が一番わかっておられるでしょうね。

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金沢柵と大鳥井館

前回の大鳥井柵(大鳥井館)の続きで、
奥州清原氏の最後籠城場所。金沢柵です。

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前回とは逆で、拡大図からです。東を大河川、南北を2本の沢、後背に山の頂(片倉山)を背負い、大軍を妨げる地形を選択地としています。(東の川の流れは、平安時代はもっと近隣でうねっていたかもしれません・・。現在は河川改修や土地改良の結果の流れでしょうか)

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前図から引いて広域にしたものです。御嶽山を取り込んでの要害地形です。山の名前の通り、宗教的なものが感じられます。

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更に引いて上から見たものですが、大鳥井柵(大鳥井館)も隣接して南にあります、2柵が連動することにより、更に防御力が上昇したことでしょう。
前面の大河の流通の管理、背後の山の資源の管理、選び抜いての選択地だったことでしょう。
「奥州清原系河岸台地型城柵」と呼べるような城造りの意識があり、十三湊の福島城へと繋がり、蝦夷地の下国安藤氏系の海岸段丘城の城館へと発展していくような大枠が見えてきます。

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自然要害と籠城戦

籠城戦つながりで、時代を遡ってみました。

奥州清原氏の惣領家、大鳥山の清原氏の拠点であろう、大鳥井柵 (または大鳥井館)
の立地について考察しました。

いずれは、下国安藤氏に繋がる城館の起源が、どこから始まっているのか?

日本海側の城館の「縄張り」について考えて行きます。

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まずは、全体の地形。西には大河川、山を解析する2本の河川に南北を囲まれ、東は敵軍を阻む山峰の連なりが見られます。
山の連なりや頂は、一族の氏神としての存在感や、山岳信仰にも繋がるものがあったのではないでしょうか。

kiyooutori2.png

次に、大外要害地形の中から更に、細分したものです。大外(おおそと)要害に対して内外(うちそと)要害としました。

kiyooutori3.png

次に、更に館を拠点化する、自然要害地形です。何重にも重なる天然の要害地形から、選地を重ねての、本拠地の居館が作られていると思えます。

・・・逆に言えば、
自然災害からの影響をも受け付けない場所が、縄文時代からの営みの中で生き残った人々の中にあり、その地の豪族が繁栄していく中で、本拠地化・拠点化して行く流れもあるのかもしれません。

源ノ義家との対決の中で、清原氏の最後の拠点・出羽金沢柵と同時期まで併存し、当然、源氏軍に攻められたと思えますが、惣領家は安部氏攻略にも動いていないので、「信仰の家」として、俗世とは別次元にあったのかもしれませんが、源氏軍にとっては宗教的なものも関係なかったかもしれません。

苦戦した源氏軍は、とにかく、一族根絶やしというか、なで斬りに走っていたのではないでしょうか。

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追加 奥州安倍氏の家臣団 安倍良昭、安倍官照について

奥州 安倍氏の家臣団の頁、更新しました。

私が昔調べた系図では、安倍義時の長子で庶子、出家した法体の武将として安倍良昭がいましたが、

最近の系図研究では、安倍義時の弟に安倍良昭、入道して良照。

安倍義時の息子に、叔父・良照の跡職を継承した、官照という人物が存在するようです。

二人の事績が重なり合って、ひとりの事績となっていたのでしょうか。

斎藤道三のように二人の事績がひとりのもの、となるのは多々あることです。

花押や、筆跡で、あきらかになっていくと良いと思います。

これからの研究に期待です。

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